仕事とは理に則して事に仕えること

久しぶりにブログを書きます。
3月2日の「唯識に学ぶ会」の後の懇親会でお酒を飲んだので、飯能駅前の駐車場に置いたままだった自転車を3日の日に歩いてとりにいきました。
その途中で知り合いの方に、「今日は自転車ではないのですね」と言われ、事情を話すと、納得してくれました。そして、
 「歩くこともお仕事ですね」
と言われ、この言葉が私の心に余韻を残しました。
仕事とは、「事に仕えること」です。
少し難しい話になりますが、すべての存在は「事」と「理」とに分かれます。たとえば、ニュートン万有引力を発見したことを例にとってみると、リンゴが落ちるという現象は、すなわち、事は、引力という理に則しているのです。
これを私たちの生き方にあてはめてみると、私たちのすべての仕事は、表面的には「事」ですが、その事がどのような理に則してなされているかが問題となります。
正しい理に則してなされていればもちろん問題はありませんが、間違った理に則してなされた仕事は、自分もそして他人をも苦しめることになります。家庭の内で、社会のなかで、広くは世界のなかで起こっている人間同士の対立は、すべて間違った理に則して人々が生きているからです。
では正しい理とは何なのでしょうか。それは
 「生かされて生きている」という理です。
本当に少し静かに考えてみると、あの38億年前に地球に生じた根源的な命に生かされているのです。その根源的な「命」が流れ流れて、いま・ここで私の中の「いのち」として躍動しているのです。私もあなたも、否、人間だけではない、すべての動物も植物も、みな同じ「いのち」でつながっているのです。みんな仲間です。仲良くすべき間柄です。
それに気づかず、愚かにも自他対立の生き方をしているのです。その対立の最高度の愚行が「戦争」です。
「生かされて生きている」ことを食事という事を例にとってみましょう。ある食べ物を、たとえば、刺身を食べることを例にとって考えてみると、魚さん、それが育った海、大きくは太陽、そして身近には漁師さんたち、それを料理した料理人、自分の中の舌、乃至、60兆の細胞から成るこの身体ーーーもう無数の「自分」以外の「他の力」によって、美味しい一切れの刺身を味わいことができるのです。
 「自分以外の他の力」−−−これを「縁」といいます。
本当に私たちは無量無数の縁によって生かされています。
その事実を「縁起の理によって生かされてある」ということができます。
突然、縁起という仏教の言葉を使いましたが、縁起は日本人には慣れ親しんでいる言葉ですね。
今日のブログの表題の「仕事とは理に則して事に仕えること」にもどりますが、
   「仕事とは縁起の理に則して事に仕えること」
と定義できます。
 私は、最近、
  「生かされて生きているのだ」
 とこの身に言い聞かながら、自分、自分という執拗な執着心を無くすことを目指して日々精進しています。