「いのち」のために生きる

久しぶりにブログを書きます。
この歳になっても、まだ「なにのために生きているのだろうか」と考えいます。よく「人は他人のために生きるのだ」といわれます。たしかにそうです。
 でも今朝、突然、「人はいのちのために生きるのだ」という声が心の深層から湧いてきました。先般、森政弘先生の「われわれ自身が、われわれが作ったものが、われわれの組織が、すべて自然のようになれば問題がなくなるのである。だから生涯の課題として深く深く自然を味わっていただきたい。」という一文(『非まじめをきわめる』から)に触れて、最近、暇のときは、庭のベランダに座って、自然を眺めることにしています。我が家の前には入間川が流れ、その向こうには飯能の丘陵が180度、連なっています。ものの十分ほど眺めていますと、もう十種類ぐらいの鳥が飛び交うのを楽しめます。ときには美しい白鷺が舞っています。
 庭には大輪の赤い、白いバラが咲き誇っています。
 鳥も花も「いのち」を謳歌しています。花々の間を蝶が舞い、地面では幾匹ものアリがせっせと働いています。
 まさの「いのち」があふれています。
 そのような自然を観察し続けたためなのか、「人はいのちのために生きるのだ」という思いが起こってきました。
 猫の話になりますが、我が家に「和歌」という猫を飼っています。(以前のブログでその写真を載せましたので見てください。賢い顔をしています。)
 家の裏で合計5匹の野良に餌を与えています。私もお腹がすくと苦しいから猫たちにも苦しいだろうと思って、餌を与えています。(近くに家のなかで13匹の猫を飼っている人がいますが、餌代はどのくらいかかりますか、と質問したら、考えないことにしているという答え。我が家もそうしています。)
 いのちを与えられた生きものにとって生きるとは大変なことです。いろいろの問題や困難を背負って生きざるをえません。よし、そうだから、人間のためだけではない。広く
   「いのち」のために生きよう
 という思いが私の中で強まってきました。
 
   地球上に生じた、この不思議な「いのち」−−−これを思うと不思議な気持ちになります。