「唯識で読み解くダンマパダ」(20)〜実践することの大切さ〜

今回は、第19詩句、第20詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。

第19詩句
たとえ、経文を数多くそらんじても、それを実行しないならば、その人は怠けている。
それは、牛飼い人が他人の牛を数えているようなものであり、その人は修行者の部類に入らない。

第20詩句
たとえ、経文を数少なく語っても、法を法に隨って実践し、貪と瞋と癡とを滅し、
正しい知を得、心がよく解脱し、今世にも、また来世にも、執着がない、そのような人は修行者の部類に入る。

 私たちが生きていく上で必要なものが二つあります。それは「理論」と「実践」です。
 今回の二つの詩句はこの二つの関係が説かれています。
 まず、第19詩句の「たとえ、経文を数多くそらんじてもも、それを実行しないならば、その人は怠けている。」を検討してみます。
「経文」と訳した原語は「サムヒター」で「系統的に配列されたテキスト」という意味ですが、仏教には厖大の量のテキストがあります。それをまとめて経・律・論の三蔵といいます。
 このうちの「経」とは、釈尊によって説かれたものとされていますが、実際は釈尊以後に作られた数多くの経典をまとめていったものです。
 それは原始経典、小乗経典、大乗経典などに分類されますが、それらの経典の中では、時代々々に応じて、新しい概念を加えることによって釈尊によって説かれた教えを源泉として、より深く語られているのです。
 キリスト教イエス・キリストの言明を旧約聖書新約聖書のみに限定する一聖典主義ですが、これに対して仏教は多聖典主義といえるでしょう。
 とにかく、現代の私たちは、経だけではなく律や論をも含めて無数のテキストを手にすることができ、それらを読み研究することができます。その結果、仏教学者といわれる人がいて、また多くの仏教学会が開かれています。
 それはそれでよいことですが、「理論」に詳しい仏教学者といわれる人のうちのどれだけが、仏の教えに随って具体的に「実践」しているかが問題です。
 上記の二つの詩句はこの問題を提起しているといえるでしょう。
 「たとえ、経文を数多くそらんじても、それを実行しないならば、その人は怠けている。」と。
すなわち、理論をいかに多くも学び語っても、実践しなければ怠けたことになると訓戒しているのです。そしてそのような人は修行者といえないと厳しく断定しているのです。
 実践を怠った人を「牛飼い人が他人の牛を数えているようなものである」という譬えは面白いですね。「牛飼い人は本来は自分の牛を指して数をかぞえるべきであるのに、他人の牛を数えている」とは、「理論は本来自分に向けるべきであるのに、そうすることなく、ただ理論のみに耽っている」という譬えです。
 次の第20詩句では、前の詩句を受けて、ではいかに実践するのか、そして実践によってどのような結果がもたらされるかが説かれています。
「経典の文句を数少なく語っても、法を法に隨って実践し」の中の「法を法に隨って実践する」が実践のありようを示しています。ここをどのように解釈するか、難しいところですので、原文を出して検討しましょう。原文は
   dharmasya bhavaty anudharmacArI
です。文法でいう属格のdharmasyaのdharmaは「法」と訳されますが、この法とがなにかが問題です。友松圓諦著『法句経』では「正義の法」ですが、この訳語の意味するところはよくわかりません。これに対して中村元著『真理のことば』では「理法」と訳されていますが、理法を「理としての法」ととらえてるならば、この訳は適切であると思います。
 その理由を述べてみましょう。
 前の「唯識で読み解くダンマパダ」(10)のブログで記したことを再度引用してみます。

<では、釈尊が悟った真理とはなにか、を考えてみましょう。これを解決することができるのが、次の釈尊の言葉です。それは、「縁起の見るものは法を見、法を見るものは縁起を見る。」という阿含経の中の有名な一文です。この中の「法」は「真理」です。したがってこの一文は 「縁起こそが真理である。」という意味になります。では縁起という真理、縁起の理と省略して、「縁起の理」とは何か。それは、「此れ有れば、彼れ有り。此れ無ければ彼れ無し。」と簡単に表現される法則です。>

 釈尊の「縁起こそが法(真理)である」というと一大宣言に基づいて、第20詩句の「法を法に隨って実践する」という中の「法」を「縁起」ととらえることにします。
 したがって「法を法に隨って実践する」は「縁起の理を縁起の理に随って実践する」ということになります。
 ここで、実践する主体である「自分」に眼を向けてみましょう。
 「自分」も縁起の理によって生まれた者です。いま「自分」といいましたが、そのような者は存在しなく、すべて「縁」すなわち「他の力」で生まれ、そして生きているのです。否、他の力によって生かされているのです。
 いろいろとややこしく書いてきましたが、簡潔にいうと、
  
  多くの他の力に生かされている、という事実をはっきりと知って生きていきなさい、
 
 と第20詩句は私たちは語りかけているのです。
 とはいえ、私たちには「自分」「自分は」「自分の」という思いと言葉が常に心の中に生じて、自己中心的な生き方に終始して、自分が苦しみ、他人をも苦しめる生活をしています。
 その「自分」というものが「縁起の理」に則して生きるならば、だんだんと小さくなり、その結果、「貪と瞋と癡とを滅し、正しい知を得、心がよく解脱し、今世にも、また来世にも、執着がない、そのような人になることができる」と説き示めされているのです。
 縁起の理に則して生きるとは、私は最近、
       「他が先で自は後」
という簡単な言葉で表現しています。
 生きるさまざまな状況の中で、たとえば、家庭の中で、友人との付き合いの中で、複雑な人間関係で縛られた会社の中で、さらには、見知らぬ他人とすれ違う雑踏の中で、「他が先で自は後」の精神で生きていこうとする人が増えれば増えるほど、社会は平和になっていくのではないでしょうか。
 最後に、第20詩句の「今世にも、また来世にも、執着がない」に注目してみましょう。
前の「唯識で読み解くダンマパダ」(19)で

 今生も来世も地獄もすべて言葉があるだけです。でも釈尊はこれらの言葉を『ダンマパダ』の中で、しばしば使っています。だから、たとえば、死後の世界があれば、それはどのような世界か、地獄はあれば恐い、などと不安がり怖れてしまいます。しかし、釈尊は、そのようなものが、いわば、有りてあって、実在するであると、決して説かれたのではないのです。
 
と書きましたが、このことが「今世にも、また来世にも、執着がない」という言葉で証明されています。
 とにかく、「何事にも自分を立てて執着する」ところに自他の苦しみが生じます。
なかなか難しいことですが、
    「自分を捨てよう、執着をなくそう」
 と叫んで、今回のブログを終わります。