一日のはじまり

今日も一日がはじまりました。私のまずやることは、居間の雨戸を、続いて道場の雨戸を開け、待ち構えている猫の「きじ」と「まいける」(妻がつけた名前)に、そして、スズメの餌を地面にまき、梅の木にミカンを掛けることです。
いま終わりましたが、もう、鳥どりが来て食べ始めました。ヒヨは数羽きて喧嘩をしながら食べています。スズメは非常に用心深くて、数十羽で梅の木をすこしづつ下に降りて、大丈夫とみはからって、一斉に地面におりて餌を拾います。
鳥の種類によってこのように性格がちがいます。「性格」といいましたが、これは人間についてだけ言える言葉でしょうか。
とにかく生き物たちの行為は種によって相違します。穏やかの鳥もいるかと思えば、激しく争う鳥もいます。
ところで人間、ホモサピエンスという種の行為は、もう多岐にわたります。その愚かな行為は、自分と他人とを分けて対立することです。その対立の中で最高度の愚行は「戦争」です。
人間はなぜそうなのでしょうか。それは人間が執拗な自我執着心に染まった複雑な心を持ち、言葉を自由に駆使できるからです。
表層で働く執拗な自我執着心を無くすことは難しい。でも大波小波が起滅する心の「深い層」に沈潜してみましょう。心という海の真底にまで潜ってみましょう。すると、そこには自我意識もなく言葉もありません。あるのは、唯だ、
     「一つ」
です。
 この「一つ」に気づくための方便が、なりきり、なりきっていくことです。becoming one with です。
それは難しいことではありません。たとえば、吐く息、吸う息になりきっていくことです。随息観を行うことです。
私も「今日一日、なるべく、なりきり、なりきって生きていこう」と心に誓いました。