「唯識で読み解くダンマパダ」(15)〜真髄を見る〜

今回から第11詩句と第12詩句とを読んでいきます。
まず訳を記します。
(第11頌)
 真髄でないものを真髄と考え、そして真髄を真髄でないものと見る、
 そのような人は真髄に達しなく、誤った考えの境界に住する。
(第12頌)
しかし、真髄を真髄として、そして真髄でないものを真髄でないものとして知る、
そのような人は 真髄に達し、正しい考えの境界に住する。

 まず、「真髄」と訳したサンスクリットは「サーラ」ですが、この語は植物の茎を意味しますが、転じ、物事の本質を意味するようになりました。その意味で「真実」と訳されることがあります。しかし、真実という訳は第9詩句、第10詩句でのサティヤにあてたので、ここでは「真髄」と訳すことにしました。
「真」は真実に通じ、「髄」には物事の中心をなす最も重要な部分、すなわち本質であるからです。
茎は植物の真っ直ぐで強い部分であることから、この「サーラ」は、堅固、堅牢などとも漢訳されます。
 とにかく、「サーラ」は、「物事の不変で堅固な本質」を意味する語です。では、そのようなものは一体なにか。この二つの詩句ではそれが何であるか語られていませんが、般若経群の中で強調されはじめ、<唯識>にも引き継がれた
   「一切諸法の真如」
 という概念を手掛かりに、真髄とは何かを考えてみます。
 一切諸法とは、「ありとあらゆる存在するもの」です。それには、身の回りの、机、椅子、コップなのどの事物から、ないし山や川などの自然、広くは星々のかがやく空、宇宙、などのいわゆる物的なもの、さらには、視覚、聴覚、ないし触覚などの感覚、言葉を用いての思考、苦しい、楽しいなど感受作用、さらには憎む、妬むなどの心作用などの心的なものをも含めて物心両面にわたる、いわゆる現象的存在すべてを意味します。
 では「真如」とは何か。この原語は「タタター」で「あるがまま」という意味です。私たちは何事につけても、その事の「あるがまま」のありようを認識していません。私たちは、ある事を自分の心の中で、加工して、まったく「生」(なま)のありようから大きく変形してしまっているのです。
 たとえば、「憎い人」に出会うという事を例にとって考えてみましょう。ある人に出会う。そしてその人を憎いと思い、眼の前に「憎い人」がいると設定してしまう。 しかし、静かに心の中を観察して、「憎い人」が設定されるまでのメカニズムを分析してみましょう。
 ある人を見た瞬間には、その人は憎くも憎くないこともありません。でも次に、心の中に生じたその人の影像に対して、憎いという「思い」と「言葉」とを付与して、その人を「憎い人」に加工し、それを心の外に放出して、眼の前に「憎い人」がいると設定してしまうのです。この一連のメカニズムがわかれば、
   「憎い人とは錯覚である」
という事実が明らかになります。
 では、加工される以前のその人の「あるがまま」のありようは何か、つまり「真如」としてのありようはどういうものか、と追究していく必要があります。
 今は視覚の対象としての人間を取り上げましたが、たとえば、秋になって鳴く虫の声は美しい、この汚物は臭い、いま食べている食事は美味しい、などと思う以前の、声・臭い・味などの「あるがまま」の真如としてのありようはどういうものか、と追究していくことが必要です。
 そのように追究できるためには、心の波を静めて、心を明鏡止水のような状態にすることが必要です。そのためには、波を起こす要因である「思い」(その代表が貪・瞋・癡という煩悩)と「言葉」(言葉で考える働きを分別・妄分別・虚妄分別という)を心の中から払拭しなければなりません*。
 以上のように、「サーラ」を「物事の不変で堅固な本質」ととらえ、それに大乗仏教でいう「真如」をあてて解釈してみました。
次に「真髄に達しない」「真髄に達する」を考えてみます。この中の「達する」の原語は「アディガッチャンチ」(adhigacchanti)ですが、これは「到る、達する」という意味の「アディガム」(adhigam)の三人称複数形で、証、証得と漢訳されます。
 真髄を真如ととらえると、「真髄に達する」とは「真如に達する」、すなわち「真如を証する」ことです。真如は「空」と言い換えられますが、釈尊は六年間にわたって苦行を、そして最後に菩提樹下で禅定を修して、無上正覚を獲得されたのですが、それは「真如に達した」すなわち「空を悟った」ということができます。
 釈尊は出家されてから、まさに「空じる旅路」「否定の旅路」を歩むまれたのです。そして、心の中の出来事(諸法)を否定し否定し去って、最後まで残った極く微細な心の汚れをダイヤモンドのような禅定(金剛喩定)で払拭して、真如に達し、、空を悟られたのです。
 私たちも釈尊の悟りを高嶺の花とせず、釈尊の境界を目指して「否定の旅路」を歩んでいこうではありませんか。
「誤った考え」と「正しい考え」は次回に譲ることにして、今日のブログはこれで終わります。

*心を静めて明鏡止水の状態にするためには念・定・慧という心所を展開する必要がある。