縁ということ(3)

(つづき)

 最初に、縁とは「たまたま」であるといいました。私は私の意志とは無関係にたまたま生まれたのですから、私のなかには私が作り出した「私のもの」というものは何もありません。したがって執着すべき「私」というものはどこを探しても見つかりません。もともと無我であって、我というもの、私というものは存在しないからです。
 しかし、ここで注意すべきことがあります。
 無我であるならば、まったく自分というものは存在しないのだと考えて、いわゆる虚無主義に陥ってしまってはいけないということです。
 縁にはもう一つ「自分以外の他の力による」という意味がありました。この意味に想いをはせるとき、別の「自分」「私」があることに気が付きます。たしかに三億分の一の精子から私は生じました。心臓は私の意志とは関係なく動いています。でもこれらはいわば現象として捉えられる「個体」としての私のありかたです。精子卵子にまで向かわしめた生命力、幼い心臓に初めて鼓動を起こさしめた生命力、そしていま一瞬の私の全肉体を支えている生命力に、すなわち、私という個体を通して働く「普遍的な生命力」に注目するとき、いったん否定された私というものが、あらたな価値を持った「私」として自覚されてきます。
 たまたまの縁で生まれた自分にすぎない。しかし大きな普遍的な力によって生かされている貴重な存在であると気が付くからです。
「自分とは有ることが難しかった存在である。だから自分がいまここに人間として生まれていることはなんと有り難いことか」と思われてくるからです。
 小さな自我意識が転じて大きな自我意識に変化したといえるかもしれません。前者の自我はエゴ心にまとわれた汚れた自我です。これに対して後者の自我は個を超えた大きな力の存在に目覚めた清らかな自我です。
 この覚醒した清浄な眼でもって、自分を、世間を、そして自然と宇宙とを眺めるとき、自分に働きかけてくるさまざまの「他の力」の存在にますます気が付いてきます。
 それは自分が大きくなること、エゴ心がますます無くなっていくこと、そして自分の心が清められていくことであると思います。
 心がますます清められていくにつれ、肉親が、友人が、人々が、そして植物が、動物が、さらには山や川や海などの自然界までもが、自分を支えてくれている有り難い他の力、すなわち「縁」であることがますますはっきりと理解されてきます。
 では汚れた心を清めていくにはどうすればよいのか。
 それは智慧でもって煩悩という塵を払拭していく以外には方法はありません。
 智慧を「般若」といいます。般若の働きは簡び択る力(簡択力)です。有るものを有ると、そして無いものを無いと、きっぱりと見極めていく力です。なにが本当に存在するのか、これこそが仏教が解決を目指す一大問題です。
 釈尊は般若の智慧でもって「これは存在しない」「これも存在しない」と否定を繰り返し、最後の最後、もはや否定すべき何物もなくなったとき、あの菩提樹下で無上正覚を獲得されたのであるといえるでしょう。
 私たちも、もちろん釈尊ほどの悟りを得ることは到底出来ないにしても、「縁起の故に無我である」という釈尊が残された教えを法灯として、エゴ心にみちた自我の否定を目指す「否定の旅路」に出掛けようではありませんか。
 否定するには力強い意志ないし勇気がいります。しかしその意志・勇気こそ自己を超えた何か普遍的な大きな力の働きのように私には思われます。
 先日見た、あの「人体、驚異の小宇宙」という放映は、私にとって、そのような勇気を引き出してくれた有り難い「縁」となりました。

以上で「縁ということ」を終わります。