生きていながら死を実現する
二十数年まえに不思議なご縁で知り合った山口博永師から先日、以下のようなメールをいただきました。
臘八と涅槃接心で
唯識観を工夫しました
その結果です。
今回の接心は、死を見据えた坐であった為か…、素晴らしい気付きを得ました。
生きていながら死を実現すればするほどに本物に出会います。
… … …
外境(界)から名が消え失せて、言語が 止み
そこに存在(有るべきようにてある)を 観る。
存在には温もり、感応があって、その印象は、
“ 我が友!兄弟! ”
と叫びたくなるほどの親近感から、一体感を覚え、
その有り様(尊厳性)に涙し微笑む。
更に深く(内在)禅定に入ると、
母(最高理想、愛そのもの)に安らぎ、歓び、同時に道心が、母心と同化して
“転識得智”し、
菩提心 《己れ未だ渡らざる先に、一切衆生を渡さんと発願し営むなり》の命がほとばしる。
無分別智とは
尊厳(智慧)と
慈悲そのものであり、
無条件、無制限の歓びであります。
そこでは物事を確かめる手段(自我)は消え伏せ
“ 唯識 ”となり
全てに
疼き渡り、
いとおしい
これが無分別智の
正体であり、いきいきとした作用!であり、
転識得智した働き…
唯識の世界観であるようです。
臘八接心で
一指頭の地獄行きを覚え
《大死一番》
涅槃接心で
温(ゆたか)な歓喜(無分別智)に遊ぶ。
《大活現成》
一即一切 一切即一
博 永 九 拝
お若いときから修行三昧の生き方をされた方の深層心からの叫びのような歌です。
特に、
「生きていながら死を実現すればするほどに本物に出会います。」
に私は感動しました。
私はいま、昨年の五月から『大法輪』で「唯識実践講座」と題して連載しています。
今年の一月号から山口博永師と私との対談を五回にわたって掲載していますので、読んでいただきたく思います。