「唯識で読み解くダンマパダ」(10)〜永遠不変の真理とは〜

第5詩句を検討を続けます。
 
 実に、いかなる時でも、怨みを以っては怨みを静めることはできない。
 ただ、怨みなき(心)も以って静めることができる。このことは永遠の真理である。

今回は、最後の「永遠の真理」を考えてみます。この中の「永遠 の」にあたるサンスクリットは「サナータナ」で「永遠の」あるいは「恒常の」の意味です。すなわち第5詩句で述べられたことは、「永遠にあり続ける不変の真理」であるというのです。
私たちは真理という言葉をさまざまな意味で使います。「(君がいうこと)それ真理?」と問います。「それ本当ですか」という使い方です。
 さらには「それは科学的真理である」ともいいます。たとえば、「この宇宙は140億年前にビックバンを起こして生じた」という宇宙開闢説が現代では真理となっています。ところが、ついこの前の20世紀に入るまでは、絶対時間と絶対空間とがあり、そのなかに不滅の原子・分子が存在し、それらの組み合わせの違いでさまざまな存在するものが形成されている、というニュートン宇宙論が真理と考えられていました。
 それが一気にくつがえされて、ビックバン説が表に登場してきたのです。でもこのような科学的真理は「永遠」でも「恒常」でもありません。いずれそれがくつがえされて新しい説によって真理の座を追われるかもしれないのです。
 これに対して釈尊は「永遠にあり続ける不変の真理」を悟ったのです。その真理とは何か。これに入る前に「真理」の原語である「ダルマ」(dharma)についてすこし詳しく考えてみましょう。
 ダルマは常に「法」と漢訳されます。それは、ダルマには種々の意味があるからです。いま、仏教の用語としてのダルマに限ってみるならば、次の三つの意味があります。
 ①真理としての法
 ②教えとしての法
 ③存在するものの構成要素としての法
 最後の③から説明していきます。
「存在するもの」とは、すでに考察してきたように、一人一宇宙としての宇宙の中に存在する「すべての現象」(これを「一切諸法」といいます)です。仏教はいわゆる科学の眼をもって、「存在するもの」を細かく鋭く分析して、それを構成する要素にどのようなものがあるかを解明し続けてきたのです。この意味で、仏教はまさに科学であるといっても過言ではありません。そして原始仏教から部派仏教を経て、<唯識>に至って、百種の構成要素を立てるようになりました(これを五位百法といいます)。
 次の「教えとしての法」とは、よく「教法」といわれる法で、言葉で語れた教えのことです。その教えは種々の経の中で語られて、文字を通して私たちはそれを読むことができます。
 キリスト教旧約聖書新約聖書のみによる一聖典主義といわれますが、仏教はまさに無数聖典主義とでもいうべきでしょうか。阿含経からはじまって、もう数え切れないほどの経が時代に応じて作られてきました。もちろん時代に応じて作者は違いますが、すべての経が「如是我聞、一時仏在・・・」すなわち、「(経を説く者は)是の如く我れ聞けり」という一文かはじまるように、経の内容はすべて仏釈尊によって説かれたとされています。
 なぜ、そのような一文からはじまるのか。これに対して、後代に作られた経を権威づけるためのである、と考えることもできますが、そうではなくて、すべての経の作者の中には
「経の言葉は釈尊が語ったものであるとしても、その語った言葉は、すべて真理の世界から流れ出てき たものである。」
という信念があったからです。
 その信念とは、前にあげた「教えとしての法」と「真理としての法」とは関連したものであり、「法界等流の法」すなわち「法界から流れ出た法」すなわち「真理の世界から流れ出た教え」であるという信念です。
 換言すれば、それは「永遠不滅の真理を悟った釈尊が語られる言葉は、永遠不滅の真理である。」という信念です。
 私は、この「法界等流の法」という概念を知って、はじめて仏教すなわち「仏の教え」の真髄に触れることができました。
 なぜ釈尊の教えが、二千数百年の時の流れの中で、無数の人々に多大な影響を与え、多くの人々の苦しみや迷いを救済することができたのはなぜか、長くこの問題に悩んできた私は、その理由は「釈尊の教えが永遠不滅の真理に基づいている」からであるという事実に気づき、ああそうだったのかと納得したのです。
 では、釈尊が悟った真理とはなにか、を考えてみましょう。これを解決することができるのが、次の釈尊の言葉です。それは、
 「縁起の見るものは法を見、法を見るものは縁起を見る。」
という阿含経の中の有名な一文です。
この中の「法」は「真理」です。したがってこの一文は
 「縁起こそが真理である。」
という意味になります。では縁起という真理、縁起の理と省略して、「縁起の理」とは何か。 
 それは、
「此れ有れば、彼れ有り。此れ無ければ彼れ無し。」
と簡単に表現される法則です。
 そこで、「此れ有れば、彼れ有り。」という法則を、第5詩句の
   「実に、いかなる時でも、怨みを以っては怨みを静めることはできない。
    ただ、怨みなき(心)も以って静めることができる。」
と述べられることに当てはめてみると、
 「怨みなき心が有れば、怨みが静まることが有る。」
という法則すなわち理があり、これこそが真理である、ということになります。 
 いま分かりやすく此れをA、彼れをBと言い換えて、
 「A有ればB有り、A無ければB無し。」
という法則で表現しましょう。そして一人一宇宙の中に生じてくる種々の出来事をこの法則に照らして、「Bという出来事が有るのは何が有るためなのか」と追究し、もしBが否定すべき出来事であれば、その原因となるAを無くしていけばよいことになります。
 否定すべき出来事として第5詩句では「怨む心」があげられていますが、生きる中で遭遇するさまざまな否定すべき出来事に対して、その原因は何か、縁は何か、と追究する姿勢を持つことの大切さを
「縁起の見るものは法を見、法を見るものは縁起を見る。」
という短く簡単な一文で釈尊は私たちは説き示してくださったのです。
真理はまことに簡単です。

 簡単の真理を実行に移そう!。

こう叫んで今日のブログを終わります。