教育から共育へ

 
(個性の前に共性を引き出す)
 英語の「educate」の語源を辿っていくと、ラテン語の「educere」という言葉で、「e=外へ」と「ducere=導く」を組み合わせた言葉です。つまり、内側にある可能性を外へ引き出すという意味になります。
  それに対して、明治以降に翻訳された日本語が「教育」つまり、「教え育てる」という意味になっていることについては、違和感を持たれている方も多いと思います。私が居た立教大学の教育学の先生方に聞いても、この語源について知っている方は居ても、「教育」に代わる適切な訳は何ですか? と質問しても、皆さん分からなかったのです。普段からそういったことを考える機会がなかったからだと思うのですが、「教育」の「教」を共通の「共」にして「共育」とされる方もおられる思います。とにかく「共育」のほうが語源から考えるとしっくり来ますね。
 ですから、「共育」を言い換えると「人間性を引き出す」と考えることができると思いますが、「人間性」の中の何を引き出すのか、ということを考えると、よく「個性」を引き出すべきだという方がいらっしゃいますね。
 この「個性」という言葉は「Indiviual」を日本語に訳した時に生まれた言葉だと思いますが、この言葉の本来の意味は「これ以上分けられない」ということですから、その言葉通り、個性に基づいて各人がそれぞれまったく別々の考え方をして、別々の行動をしたら、この世界は一体どうなりますか? それこそ秩序もなくなるし、社会だって成り立たない。したがって個性よりもまずは「共性」を引き出すことが重要だと、私は思います。
 では、共性とは何か。それは、すべての人が持っているいわば普遍的な本性とでもいうべきものです。各人が持つ個性はその普遍的な本性に根付いた個性なものでなければ、個性がいわば乱用されて、社会は秩序なきものになってしまうのです。そのような共性に基づいた認識とは、「他があって自がある」という法則を事実として認識することだと思います。その認識に基づく生き方が、あの宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の中の
  アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリソシテワスレズニ(中略)
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アラバ行ッテコハガラナクテモイイイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロイヒ
 という生き方であると思います。
 仏教が目指すところは、智慧に基づいて生きとし生きる全ての人を救済する慈悲行を展開することです。この智慧と慈悲という、人間の「二大尊厳性」を発揮して生きようとする人は、「他が先で自が後」という精神で、他と共に生きよう、他のために生きようとする人です。
 このような生き方こそが、まさに「共性」に基づいた生き方です。個性を伸ばすことも大切ですが、このような生き方を引き出すことが「educate」の基本であると私は思います。
 私が研究してきた「唯識思想」に基づいて共育とは何か、と考えてみると、それは人の心の深層にある「阿頼耶識」という根本心に潜在している人間としての素晴らしい可能性を引き出すことが「educate」、つまり共育である、と言えるでしょう。そのような素晴らしい可能性を引き出す手段が言葉です。
 自分が「生きている」のではない、他の多くの縁によって「生かされてある」のだという事実を子どもたちに伝えるということが、まさにこの共育の根源です。
 例えば、満員の電車の中で自分が席に座って、目の前に人が立っているとしましょう、この時に目の前で立っている人に「ありがとう」と感謝の気持ちを持つことができれば、それが共性から生じる気持ちです。そうではなくて、個性だ、個性だと言われ続けてきた教育で育った者は、個という己を優先させて、「自分は人より早くこの席を獲ったからここに座っているのは当然である」と考えて、立っている人のこと忘れてしまうのです。
 家庭であれば親に対して、学校であれば先生や友人に対して、常に感謝の気持ちを持って接することが大切です。なぜなら、親や先生や友人は自分を生かしてくれている縁、つまり力ですから。このような縁を「有力(うりき)の縁」と言いますが、縁はこれだけではありません。例えば、街で何気なくすれ違っただけの、自分に対して何もしない人にも感謝する必要があります。近頃では、街を歩いていて突然刃物で刺されたり、また暴走する車が突っ込んで来るという事件がよく起こりますが、そのようなことなく、ただ自分の横を歩いている人、あるいは走っている車は、自分に直接影響を与えていないのに、考えてみると、やはり自分が生かされている縁となっているのですね。このような縁を「無力(むりき)の縁」と言います。私は、仏教を学び始めて5年ほど経ってからこのような教えを知って、自分の視野が広がり、生きていることの有難さをますます実感するようになりました。

(真相に気づけば無縁ではなくなる)
 縁についてもう少しお話をいたします。以前、日本におけるロボット工学の第一人者である森政弘先生のお話を伺った際に「近頃よく無縁社会と言われるが、縁はどこにでもあるじゃないか」と仰いました。なぜなら、歳をとって一人暮らしをして寂しく生きる人、つまり人間関係が希薄になった人は無縁のなかに生きているということが言われますが、先ほど述べた「無力の縁」で言えば、縁は人間関係だけではありません。例えば、家の中の壁や柱や天井も自分が生かされている有難い縁であるのですね。このように無力の縁に気づけば、縁はどこにでもあり、決して無縁ではないのだ、と森先生から教えていただきました。より深い存在に目が向けて存在の真相に気がつけば無縁ではなくなるのですね。
 森政弘先生とは不思議なご縁で知り合うことになりました。30年前のことですが、当時、上野にあるお寺の住職だった後藤榮山老師のもとで、私が書いた『唯識とは何か』を使って「唯識」の勉強会が開かれ、それに森先生も参加されておられ、私のことを知っておられたとのこと。ある時、浅草の浅草寺で、80名ほどのイタリア人の観光客に、森先生が「物と心」というテーマで講演することになったそうなのですが、どうしてもその日に森先生が講演できなくなってしまって、見ず知らずの面識もない私のところへ、森先生から講演の代理の依頼があったのです。
 それで私が講義に行って、もちろんイタリア語の通訳付で「引力とは一体何か」について話をしているときに、引力というと、科学的に記号化された引力については話すことができるけど「記号化されていない引力とはどういったものですか?」と聴衆に聞いた時に、誰も答えることが出来なかったんです。そこで、講壇からボンッと飛び降りて「いま私は記号化されない引力を実感しました」と言ったら、みんなが一斉に拍手してくれました。これこそ全員の共性にもとづいた行為なのですね。人は共性に目覚めると、目覚めさせてくれた人に対して拍手をするのです。これは間違いないです。
 また、以前妻と阿佐ヶ谷の美味しいビフテキを出すレストランに行った時のことです。当時私は熱心に坐禅をやっていましたから、ビフテキを前にして、ビフテキに成りきろうと集中していきました。そして集中し集中したら、全宇宙がバァーッとビフテキになっちゃったんです。この体験を、大学の授業で話をしたら、聞いている学生はみんな「アッハハ」と笑ったのです。この時も、「全宇宙がビフテキなる」という言葉が面白かったのでしょうが、それだけではなく、学生も、全宇宙がビフテキになりうるのだという事実をすでに分かっていたのですね。それで笑ったのですね。その笑いは、そうだとうなずく笑いであると解釈できるのではないでしょうか。このみんなが笑ったというのも共性に基づく行為であったのと思います。
「全宇宙がビフテキなる」という言葉は一例にすぎませんが、とにかく共性を引き出す共育に必要な「How to」は、先生が、どのような言葉で語りかけるかということが問題です。そのためにも、まずは先生方自身が、自分のなかにある共性に気づいていく必要があります。


(インドの三段論法こそ共育の原点)
 論理展開の方法のひとつとしてよく用いられるのは、三段論法といって、大前提として「人間は死ぬ」と前置きがあり、小前提に「ソクラテスは人間である」と説明が入り、そして結論として「ソクラテスは死ぬ」という流れで論理が導き出される方法です。
これに対してインドを起源とする論理学のひとつに「因明」というものがあります。それは、宗(しゅう)・因(いん)・喩(ゆ)という流れで論理展開が行われます。これをインドの三段論法をよぶことができます。
このなかの、
 宗とは「AはBである」という前提であり、
 因とは「なぜならば」と前提が成立する理由であり、 喩とは「たとえば〜だから」と日常生活で身近に経験 する事柄を引き合いに出すたとえです。
この喩の言葉が共育において共性を引き出す重要な働きをなすのではないでしょうか。
 このようなインド独特の論法を用いることによって、子どもたちの中にある共性を引き出す共育を展開してみることを私は強く提案します。
 そして、子どもたちを共育する者は、まずは子どもたちの共性に目を向けて、外部からの情報としての「知識」だけを与えるのではなくて、子どもの中に共性に裏付けされた「智慧」を養成することを心掛けてほしいと思います。
 とにかく、子どもに接する先生たちは、教育は共育であり、それは共性を「educate」する、つまり引き出すことである、という認識に立って、あの昔の藩校や寺小屋といった日本における「共育」の原点に立ち返ってほしいと願っています。