縁ということ(1)

唯識で読み解くダンマパダ」はちょうど第10詩句までが終わったので、ひと休みして、「縁ということ」と題してブログを書いてみます。
 先日勉強部屋を整理しているとき、机の引き出しから、以前に、それも私が四十歳台に書いた抜き刷りがみつかり、読んでみると「縁」についてわかりやすく書いているので、皆さんに紹介したいと思います。

               「縁ということ」
最近、NHKが放映した「人体、驚異の小宇宙」という連続番組を見ました。番組制作のチーフディレクターが私の大学時代の親友ということもあって、特に興味をもって画面に見入りました。前もって話を聞いて予想していた以上に驚きと感動をうけました。
 特に第一集「生命誕生」のなかでの精子卵子との受胎の場面には大きなショックを受けました。三億もの精子が一つの卵子に向かって激しい競争を繰り広げます。その結果、卵子に近づいた頃には、その数はすでに百に減り、最後の最後、そのなかの一つが卵子の中に突入した瞬間に、卵子の細胞膜の表面にカルシウム波が走って変化を起こして、第二の精子の侵入を阻止してしまいます。生命誕生瞬間の驚くべき出来事です。
 三億もの精子のうちのただ一つの精子が最終的勝者となって自己の遺伝子の半分を構成する要素となるという事実も、これまで話には聞いていましたが、このように鮮明な、しかも世界で初放映の映像を眼の前にすると、「自分とは何か」をあらためて深く考えさせられてしまいました。
 自分は、「たまたま」の「縁」によって生まれてきたという事実を教えられました。一つの精子卵子にたどりつかなかったら、今の自分は存在しません。また、もしも第二番目の精子が一番で到達していたならば、今の自分とは全く違った人間になっていたことでしょう。私は女性として生まれていた可能性もあったのです。まったく不思議なことです。自分の意図とは無関係に自己の生誕と有り様とが決定されたのですから。
 「自分はたまたまの縁によって生まれてきた」という自覚こそ、仏教の説く「無我」を理解する第一歩になると私は考えます。生まれようとして生まれてきたのではありません。気が付いてみたらこの世の人間として投げ出されていたのです。まず自分というものがあり、その自分の意志に基づいて、「自分」の「思い通りに」この世に、この時代に、しかも人間として生まれてきたのではありません。
 いま述べた自分の「思い通りに」という言葉の意味するものが何であるかを深く考えてみることが大切です。
 自分というものが存在すると普通私たちは考えています。そしてそのような自分は、なんらかの意志を持ち、その意志に基づいて自分の行動、自分にありようを規制し、統御していると考えています。思い通りに自分を操れる、そういう自分というものがあると思っています。
 でもはたしてそういう自分というものが存在するのでしょうか。
 いま述べたように生まれてくる過程においては、そういう自分はありませんでした。自分の意志とは無関係に生まれてきたのですから。
 生まれてくる過程だけではありません。いま生きている一瞬一瞬においても自分の意志とは関係ない生の営みが行われています。NHK放映の「人体」第三集で、これもまた驚くべき事実を知らされました。
 それは、たとえば、強いアルコールを飲むと胃の表面の粘膜の細胞が破壊されて消滅しますが、残った細胞の断片同士が協力しあって、ものの一時間もたたないうちに元の状態に細胞を再生してしまうという事実です。自分の及び知らない力が働いて、「自分」という生命が維持されているのです。
 胃の粘膜においてだけではありません。心臓にしても、肝臓にしても、ありとあらゆる内臓器官に対して「自分の意志とは無関係な他の力」が働いて自分の生命が存続しているのです。
 仏教では自分とは「縁起の法」であるといいます。縁によって起こった、すなわち、生じた存在といういう意味です。そして自分は縁によって生じた存在ですから無我であるというのが、仏教の根本的な教えです。
 また縁起のことを「依他起」ともいいます。他によって起こったという意味です。縁によって生じるとは、自分以外の他の力によって生じるということです。
 となると、先ほど述べた「自分の意志とは無関係な他の力」によって自己の生命が維持されているという事実は、まさに無我であること証明する力強い科学的発見であったということができるでしょう。

(つづく)