心の中を観察しよう

 今日は、もう三十年も歯を治療していただいている小手指にある辻歯科医院(http://www.tsujishika.jp/)での出来事をお話ししてみましょう。その歯科医院の院長は、本当に人のために献身的に治療に専念され、「利他行」に徹した生き方をされておられる素晴らしい方です。
 キリスト教を信仰されておられますが、まさに隣人愛を具現化したお方です。先日は治療をしていただきながら、仏教者とキリスト教者との生き方は、いずれも人のために“自分”を無くしていくことでは同じであるということを確認し合いました。
 とは言え、私たちはなかなか「自分」「私」「己」という意識と言葉とを心の中から滅することは困難です。ではどうすればよいか。
 そのためには、とにかく何事をするにも、それになりきり、なりきってその行為の中に自己をいわば融解させていく以外にはありませから、キリスト教では、そのような行為が「神を祈る」という瞑想であり、仏教では、坐禅などの瞑想である、ということでも同意しました。
 まさに、医院長は毎日早朝から夜遅くまで「なりきり、なりきって」治療をされているお姿に接し、怠惰な自分を恥じております。
 話を治療に移しますが、先日、虫歯を抜いてもらう時、久しぶりに痛みを感じました。そこで先生は「痛みますか、もし痛かったら手をあげて知らせてください」とおっしゃてくださいますが、私にとっては、この心の中に起こってくる「痛み」を観察の対象とすることで、有り難い修行のひと時となるのです。
 私はこの「痛む」を縁として心の中を観察してみようと思い立ちました。そこでまず、心の中に、私が早朝朝課に言っている狭山の一燈仏子寺(http://www12.plala.or.jp/ittoubusshiji/)の本尊・釈迦如来の像を心の中に想い浮かべて、その影像に意識のスポットライトを当て続けることに専念してみました。するとそれまでの「痛み」が薄れてきました。
 そこ私はさらに「よし、この痛みになりきり、なりきってみよう」と決意して、今度は意識のスポットライトを「痛み」に照射し続けることに専念してみました。すると「痛み」はもちろん以前に増してひどくなりましたが、「よし、自分の存在がこの痛みという<一事>になりきってみよう。そうすると全体が痛みであるか、「痛い」と「痛くない」という対立状態がいわば止揚した新たな心のありようが生じるのではないか」と思って痛みになりきることに専念しつづけました。
 現在の私の専念する力、すなわち念力が弱いため「痛み」はなくなりませんでした。
でも少し難しい表現ですが「全即一」「一即全」という言葉が意味する真理を悟ってみようと思って、歯の治療中、楽しい修行をさせていただきました。
 なかなか自分の心の中の出来事を観察するようなことをされる人は少ないと思います。
 でも、時には、自分に一番身近な「心」の中に住して、そこに起こるさまざまな出来事を観察してみようではありませんか。
 本当に一人一宇宙です。心を宇宙を考えて、宇宙を研究している「宇宙科学者」に負けずに
具体的な自分の心と宇宙を観察してみましょう。
 そこに「ああ、そうなんだ」という新しい発見が起こってきます。

最後に私の好きな言葉を紹介してみます。
       「唯心如夢」
       「観心覚夢」

いずれこの二つの言葉について書いてみます。