猫禅をする和歌

私の家に猫の和歌が飛び込んできてから、もう10年たちます。9歳のときの和歌の写真は本ブログ、2014年7月7日に紹介しています。
最近の写真は以下の如くです。

二つを比較すると、いまの方が眼の輝きが鋭くなっていますね。それは、いつも門柱の上に座って、坐禅をしているからではないでしょうか。上のも門柱上での写真で、いつも、長く顔を動かすことなくじっとなにかを眺め続けています。
彼女に聞いてみたい。「何を見ているの」と。そしてさらに聞いてみたい。「何を考えているの」と。
勿論、彼女からは答えは返ってきません。またその時の和歌の心境を知ることはできません。でも私は、たぶん和歌の心には妄念は起こっていないと察します。
 人間でもそうですが、心のありようが表情に出てきます。汚れた心の持ち主と清らかの心の持ち主の顔の違いは一目瞭然です。
 和歌は家に来た当時は、鳥やネズミや、時には蛇も獲ってきては、庭に並べては自慢していました。でも今は、我が家の庭木にくる沢山のスズメたちにまったく関心を示しません。もちろん、食べ物に心配がないからでしょうが。
 とにかく和歌の心は穏やかです。心の中であれこれと妄念が去来していないのではないでしょうか。
 そのような心になった原因は、いつも坐禅、否、猫禅をしているためであると私は推測します。
和歌に学ぶ今日この頃です。
 

仕事とは理に則して事に仕えること

久しぶりにブログを書きます。
3月2日の「唯識に学ぶ会」の後の懇親会でお酒を飲んだので、飯能駅前の駐車場に置いたままだった自転車を3日の日に歩いてとりにいきました。
その途中で知り合いの方に、「今日は自転車ではないのですね」と言われ、事情を話すと、納得してくれました。そして、
 「歩くこともお仕事ですね」
と言われ、この言葉が私の心に余韻を残しました。
仕事とは、「事に仕えること」です。
少し難しい話になりますが、すべての存在は「事」と「理」とに分かれます。たとえば、ニュートン万有引力を発見したことを例にとってみると、リンゴが落ちるという現象は、すなわち、事は、引力という理に則しているのです。
これを私たちの生き方にあてはめてみると、私たちのすべての仕事は、表面的には「事」ですが、その事がどのような理に則してなされているかが問題となります。
正しい理に則してなされていればもちろん問題はありませんが、間違った理に則してなされた仕事は、自分もそして他人をも苦しめることになります。家庭の内で、社会のなかで、広くは世界のなかで起こっている人間同士の対立は、すべて間違った理に則して人々が生きているからです。
では正しい理とは何なのでしょうか。それは
 「生かされて生きている」という理です。
本当に少し静かに考えてみると、あの38億年前に地球に生じた根源的な命に生かされているのです。その根源的な「命」が流れ流れて、いま・ここで私の中の「いのち」として躍動しているのです。私もあなたも、否、人間だけではない、すべての動物も植物も、みな同じ「いのち」でつながっているのです。みんな仲間です。仲良くすべき間柄です。
それに気づかず、愚かにも自他対立の生き方をしているのです。その対立の最高度の愚行が「戦争」です。
「生かされて生きている」ことを食事という事を例にとってみましょう。ある食べ物を、たとえば、刺身を食べることを例にとって考えてみると、魚さん、それが育った海、大きくは太陽、そして身近には漁師さんたち、それを料理した料理人、自分の中の舌、乃至、60兆の細胞から成るこの身体ーーーもう無数の「自分」以外の「他の力」によって、美味しい一切れの刺身を味わいことができるのです。
 「自分以外の他の力」−−−これを「縁」といいます。
本当に私たちは無量無数の縁によって生かされています。
その事実を「縁起の理によって生かされてある」ということができます。
突然、縁起という仏教の言葉を使いましたが、縁起は日本人には慣れ親しんでいる言葉ですね。
今日のブログの表題の「仕事とは理に則して事に仕えること」にもどりますが、
   「仕事とは縁起の理に則して事に仕えること」
と定義できます。
 私は、最近、
  「生かされて生きているのだ」
 とこの身に言い聞かながら、自分、自分という執拗な執着心を無くすことを目指して日々精進しています。
 

蜘蛛ちゃん、おはよう  

我が家の玄関を出て門の扉のまでの間の頭上に、強い風や雨に遭いながらも、もう2週間ばかり蜘蛛の巣が張られて、一匹の蜘蛛がそこに住みついている。自然の(否、蜘蛛の)生の営みのすごさに驚かされる。
ある日、一匹の小さな蜘蛛の子が巣の上のほうにいたが、親の蜘蛛の子供なのであろうか。でも昨日、その姿が見えなくなった。どこに行ったのかといぶかると、妻は蜘蛛は共食いをするから親が食べてのだと言ったが、私は子供が独立して巣立って行ったのだと思った。
 とにかく2週間も毎日お付き合いしていると、朝起きて「蜘蛛ちゃん、おはよう」と声をかけるようになった。
 一生懸命生きている蜘蛛が愛おしく思えてならない。

「いのち」のために生きる

久しぶりにブログを書きます。
この歳になっても、まだ「なにのために生きているのだろうか」と考えいます。よく「人は他人のために生きるのだ」といわれます。たしかにそうです。
 でも今朝、突然、「人はいのちのために生きるのだ」という声が心の深層から湧いてきました。先般、森政弘先生の「われわれ自身が、われわれが作ったものが、われわれの組織が、すべて自然のようになれば問題がなくなるのである。だから生涯の課題として深く深く自然を味わっていただきたい。」という一文(『非まじめをきわめる』から)に触れて、最近、暇のときは、庭のベランダに座って、自然を眺めることにしています。我が家の前には入間川が流れ、その向こうには飯能の丘陵が180度、連なっています。ものの十分ほど眺めていますと、もう十種類ぐらいの鳥が飛び交うのを楽しめます。ときには美しい白鷺が舞っています。
 庭には大輪の赤い、白いバラが咲き誇っています。
 鳥も花も「いのち」を謳歌しています。花々の間を蝶が舞い、地面では幾匹ものアリがせっせと働いています。
 まさの「いのち」があふれています。
 そのような自然を観察し続けたためなのか、「人はいのちのために生きるのだ」という思いが起こってきました。
 猫の話になりますが、我が家に「和歌」という猫を飼っています。(以前のブログでその写真を載せましたので見てください。賢い顔をしています。)
 家の裏で合計5匹の野良に餌を与えています。私もお腹がすくと苦しいから猫たちにも苦しいだろうと思って、餌を与えています。(近くに家のなかで13匹の猫を飼っている人がいますが、餌代はどのくらいかかりますか、と質問したら、考えないことにしているという答え。我が家もそうしています。)
 いのちを与えられた生きものにとって生きるとは大変なことです。いろいろの問題や困難を背負って生きざるをえません。よし、そうだから、人間のためだけではない。広く
   「いのち」のために生きよう
 という思いが私の中で強まってきました。
 
   地球上に生じた、この不思議な「いのち」−−−これを思うと不思議な気持ちになります。
 

ススキは絶滅危惧種の植物になるか

さる9月27日は中秋の名月でしたが、毎年の恒例で、今年もススキを飾り、団子を作り、野菜、そしてお酒を捧げてお祝いしました。澄み切ったフルムーンが天空に美しく輝いていました。

 10年前は家のすぐ近くでススキは採れたのですが、それがだんだんとなくなり、今年は車で10分ほど走ったところでやっと見つけてとってきました。でもそこはすでに工業団地の予定地ですので、来年はもうススキは生えていないかもしれません。
 ススキはそのうち絶滅危惧種になるのでしょうか。
 動物も次々と絶滅の危機に瀕してしています。その原因は人間にあることは明らかです。
 どすればよいのか。
 
  今日は朝から重い思いが心をめぐりました。

 でもとにかく、いま目の前にある自然をできるだけ味わっていこうと思いました。
 
 

森政弘先生の教え

今日はロボット工学の大家、森政弘先生から学んだことを紹介してみたいと思います。
先日、先生から以下のようなメールをいただきました。

 先日は、大変なご労作 "An INTELLIGENT Life"を御恵送賜り、誠に有難うございました。

 英語ですのでスラスラとは読めませんでしたが、拝読させて頂き、
 英語は得意でない小生にも、外国人に難解な「唯識」の要点が伝わり易い
 非常に巧い意訳がしてあると感心しております。

 添付ファイルとして、ホオズキの写真を添えますが、その写真に見られる
 ような、枯れて筋だけ残って透け透けになった皮というのが、
 今の小生だという感じです。中に赤く顔を見せている実は、育まれて
 社会の枢要として活躍している弟子達、というつもりです。
 枯れた皮は、消え去るだけです。それが宇宙の大生命として生きている
 ということと、生死を超えた思いでございます。

 横山先生は、まだまだ、皮ではありませんから、「唯識仏教」ご布教に
 精進遊ばすことを、祈念申し上げております。

これに対して私は以下のように返信しました。

  ホオズキの写真と意味深いお言葉を添えていただいたメールを拝受しました。
  皮に近づきつつある私ですが、残された人生、生かされ生きているこの「いのち」をできるだけ多  くの人々のために費やす所存です。
   ありがとうございました。

 
森先生は自然を観察することの大切さを次のように語られています。(先生の著作『非まじめをきわめる』より)

  調和のあるところに矛盾はない。(中略)考えてみると、調和といっても、矛盾がないといって  も同じことをちがった表現をしていることだとわかってくる。(中略)これに関して、もう一つ「全 機」という言葉がある。全機の機とはハタラキのこと、つまり、そのものがもって生まれたハタラキ を余すことなく発揮することが全機するということである。自然は美しい。みごとに調和している。 自然は全機している。(中略)自然は矛盾解決の手本になる。われわれ自身が、われわれが作ったも のが、われわれの組織が、すべて自然のようになれば問題がなくなるのである。だから、生涯の課題 として深く深く自然を味わっていただきたい。硬直した組織での分裂現象を見るとき、会社も、経営 者も、社員も、どれもが全機しているなどといえたものではない。

 確かに自然は、もって生まれたハタラキを余すことなく発揮しています。花が咲いているときには蝶が飛んでくるし、蝶が飛んでくるときには花はちゃんと咲いています。
しかし、われわれ人間はそうではない。心が貪・瞋・癡に代表される煩悩に汚されて、まったく非全機の生き方をしています。だから、組織の中の経営者も、社員も、みんな生涯の課題として深く自然を味わってほしい、と森先生は強く訓告されているのです。
 もって生まれたハタラキを余すことなく発揮している自然を、森先生が言われるように生涯にわたって深く味わいながら生きていこうではありませんか。
 私は森先生から多くの貴重な教えをいただきました。深く感謝いたします。
 

『An intellegent Life』が出版されました

私の著作『「唯識」という生き方』の英訳本がこのたびアメリカのWisdom社(http://www.wisdompubs.org/book/intelligent-life)から出版されました。この英訳が出来上がるまでの過程は以下の如くです。

       『An intelligent Life』の出版について
 私の以前出版した『「唯識」という生き方』(平成十三年七月、大法輪閣刊)の英訳が、今夏アメリカのWisdom社から出版されますが、この英訳が出版されるまでの経緯を簡単に述べてみます。
私が以前、平成二年から三年間、奈良興福寺の「仏教講座」で『唯識三十頌』を講じてきました。その折、それに出席されたVarghese Puthuparampil氏(以下、ジョージ神父と呼びます)とのご縁ができました。ジョージ神父はインドのカソリックの神父で、京都の花園大学などで仏教を研究された方です。興福寺の私の講座を聴かれた後、<唯識>に非常に興味を持たれ、<唯識>を英語で世界に広めるために『「唯識」という生き方』の英訳を引き受けてくださいました。それから十年ほどかけて英訳を完成してくださったのです
その後、その英訳の出版先を探していたのですが、これまた、ありがたいご縁で、アメリカのWisdom社(www.wisdompubs.org)が出版を引き受けてくださり、去る八月十一日に出版されました。
 ジョージ神父の英訳は、私の原本の日本語にしたがって忠実に訳されたものですが、このたび出版された英訳本は、ジョージ神父の訳を、Wisdom社の編集長のAndy Francis氏が細かくチェックされ、さらに氏の見解もが織り込まれ、英語の表現と本の内容とがさらに充実されたものとなりました。
 私は、『「唯識」という生き方』という本の題が『An intelligent Life』と変えられたことに、嬉しく感心しています。また私は、これを英文で読むと、思いと言葉とに翻弄されて諸問題に悩む私たち現代人は、「分別的な生き方」を捨てて、真理・真実の基づいた「知性的な生き方」をしなければならないということを強く確信するようになります。この英訳本では、その「知性」とは何かが多角的に追究されています。
私はこの英訳本をとおして仏教が、そして仏教の根本思想である<唯識>が世界に広がることを強く願っています。



       『An intelligent Life』の内容の要約
 本書全体の内容を要約してみます。
本書の内容を要約すると次の三つの項目になります。(英文は『An intelligent Life』からの引用)

①人生の目的を定めてそれに挑戦する。(the challenge of taking up a great aim in life)
②身心を鍛えることに挑戦する。(the challenge of training ourselves physically and  mentally)
③日々の生活の中でなりきる。(bekoming one with in daily lives)

本書の題名の中にあるintelligent は、よく言われる「知性的」という意味ではなくて、一言でいえば、「なりきる」ことです。それを英語では「bekoming one with(〜と一つのなる)」と表現しています。「なりきる」という和語よりも「一つになる」という方が分かりやすく、心に響いてきますね。

本書はこのほかに仏教用語がわかりやすく表現され、読むと唯識思想が深層心に不思議と刻印されていきます。今、本書の和訳を完成させつつありますので、出版されましたら、英訳と和訳を較べながらぜひ読んでください。


INTELLIGENT LIFE

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