朝に思うこと

今、朝の6時、雨つづきの毎日でしたが、今朝は青空が見えています。我が家から見える丘陵に朝陽が差しています。昨晩からの鈴虫の鳴き声がまだ聞こえます。カラスがカァー、カァーと鳴き始めました。遠くからコケコッコーという鶏の声が聞こえてきます。ボー、ボーという鳩の鳴き声も耳に届きます。庭のバラが美しく咲き誇っています。
 自然は常に躍動しているのですね。ここ・いまに在ることを謳歌しているのですね。
 裏でネコの鳴き声。裏戸を開けると4匹の猫。いつものように待ち構えていました。親猫が2匹、子猫が2匹、カリカリと美味しい餌とを与えてあげると、みんなむしゃむしゃと食べた。食べ終わるとニャーニャーと言ってそれぞれ別れていった。
 「これでしばらくはお腹がすかないだろう」と私は考えて安心した。私もお腹がすくとつらい。そのつらい思いが動物たちにもあると思うと、またつらくなる。
 生きるためには食べなければならない。でも、いま、この地球上で飢えている人が多くいると思うとつらい。「衆生無辺誓願度」とつい口ずさんでしまう。誓願するだけではだめだ。あの猫たちから始めて身近なところから済度しようと思った。

 自問自答の朝でした。

 今日も生かされ生きていきます。昨日のブログに書いたように幼い子供のように生きていこうと思う朝でした。

幼児と大人の違い

一年ぶりにブログを書きます。
 先日の西武線の電車の中で、若いお母さんが幼児を抱いて座っていました。可愛い子で、横に座った人は、幼児を見てにこりと微笑みかけました。横に座った人は三人替わったのですが、いづれの人もにこやかにほほ笑みかけ、中には幼児の手を握る人もいました。
 幼い子は本当にかわいらしい。あちこちを忙しいくきょろきょろ見ていました。時には横に立っている人の服をつかんで触ることもありました。
 そこで私は考えました。幼児はなぜあちらこちらを見ようとするのか。それは幼児にとって初めて見るものばかり、もちろん言葉ではないにしても、「いったいなにか」という気持ちで見渡しているのでしょう。大人はどうか。私たちはもう何でも見て、そして知っている。言葉でそれがなにか分かっています。だから、それを改めて見たり、何かと追究することはありません。
 だから一日のなかで「なに?なに?」と問うことはしません。
 それから幼児のように、横に立っている人の服など触ることは決してありません。なぜそうなのでしょうか。私たちのそのような行動を規制するものが、もう沢山私たちに身についているからです。
 幼児と大人の違い。
 それは幼児は、なになにと追究する気持ちがあるが、大人は「なに?」と追究する気持ちを失っています。しかし私たち大人は本当に、それが何であるかを知っているでしょうか。眼で見、言葉で考えるだけで、それが何であるか分かるでしょうか。
 それと幼児には行動を規制するものは何もないが、大人には、もう多くのことが行動を規制してしまいます。もちろん人々の間で生きる人間には、いくつかの規制が必要ですが、私たちの自由で爽快に生きることを妨げている規制も多くあります。
 動物の子供たちも本当に可愛い。嬉しく飛びはねています。たぶん生きているが不思議で楽しからでしょう。
 でも私たち大人は、長く生き続けるなかで苦しいことも多く経験してきていますから、楽しく飛び跳ねて日々を送ることができません。

 私は、最近、なにとたづね続ける子供に帰りたい、生きているが不思議で楽しく感じる毎日を過ごしたい、と考えています。

 とにかく分かったという「分別」を捨てたいと思っています。
 

「唯識で読み解くダンマパダ」(26)〜奮起し励む〜

今回は第25詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。
 (第25詩句)
 奮起と励みと自制と抑制とによって
 聡敏な人は瀑流にも流されない中洲を作るべきである。

 この詩句の主語である「聡敏な人」の原語は「メーダーヴィン」で「智慧(メーダー)を有した人」という意味です。そのような聡敏な人は「奮起と励みと自制と抑制」という四つの心のありようを有していると詩句の前半に述べられています。
 このうち「奮起」の原語「ウッターナー」は「立って起きる」を原意とし、「起策」と訳され、「心を鞭打って励む」ことを意味します。まず最初に、奮起し努力する心があげられています。
 次の「励み」の原語は「アプラマーダ」で「不放逸」と訳されます。
 この不放逸は、放逸ではない心、すなわち、なまけない心をいい、積極的に言えば、「悪を防ぎ善を修する心」です。詳しくは、あらゆる善心を起こすよう鼓舞する「精進」と善を生じるのに最も力強い原因となる「無貪・無瞋・無癡」の三つの心から形成されます。 むさぼることがなく、いかることがなく、おろかでない心で、「よし精進し努力するぞ」という意志を起こすが必要なのですね。
 次の「自制」の原語は「サムヤマ」で、「止息」「静息」と訳され、煩悩が止み静かになった心を意味します。
 その次の「抑制」の原語は「ダマ」で、「調伏」と訳され、心を調えて煩悩の汚れから浄めることを意味します。よく調えられ柔らく素直になった心であるといえるでしょうか。
 このように四つの心のありようを有した賢人は「瀑流にも流されない中洲をつくる」と詩句の後半に述べられています。
 中洲の原語「ディーパ」は「島」を意味する語ですが、洲とは河の中にある砂の島のことです。「ディーパ」には「安全な避難所」という意味もありますが、中洲はそこに居れば安全で瀑流にも流されることはありません。
 このような安全な中洲をつくるというのは譬喩ですが、現実は、無常転変する人生の流れの中で、その流れに翻弄されない確固不動の己を築きなさい、その「確固不動の己」を養成するために必要なのが、「奮起と励みと自制と抑制」の四つの心のありようであると、この詩句は教え示しているのです。
 この四つを実践することは私たちには難しい。でも心の深奥にこの四つを刻印することから始めてみようではありませんか。
  「奮起し励もう!」
 と自分に言い聞かせて、今回のブログを終わります。

「唯識で読み解くダンマパダ」(25)〜心の中に満月を輝かしつづけてみよう〜

今回は第24詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。
 (第24詩句)
 奮起し、勤勉で、念を具し、行いが浄らかで、慎重に行動し、
また、自からを制御し、法にしたがって生活し、勤め励む人は、称讃が高まる。

まず、「念を具し」の念について。
 念の原語「スムリティ」は、記憶を原意とするが、「念」と訳され、心の中心体(心王という)に付随して働く細かい心作用(心所という)の一つで、波立ち散乱した心を静める最初の力となる重要な心作用です。
 たとえば、私は、昨日、何か嫌な事を経験したとします。すると、その出来事が私の心の中に記憶として生じ、私の心を掻き乱します。その私の乱れる心を静めるにはどうすればよいのか。そのためには、記憶を原意とする「念」の働きを心の中に起こせばよいのです。
 たとえば、中秋の名月に見た美しい満月の影像を心のなかに浮かべて、その満月を消すことなく、その影像に心を集中しつづけてみましょう。そのように集中しつづけている間は、いつも満月が心の中に輝き、嫌な出来事の思い出はなくなり、心は静まり安定しています。この、一つの満月を消すことなく思いつづけていくことができる力が「念」の働きです。その点を念とは「明記不忘」すなわち「明らかに記憶して忘れない」といいます。また、心が一つの対象になりきり、なりきっていくありようと言い換えることができます。その点を「心一境性」といいます。
 いま満月を譬えに出しましたが、いつもその実践をお勧めしている「吐く息、吸う息になりきり、なりきっていく」ことも念の働きです。念の力です。以前に念力でスプーンを曲げるとかいう、とんでもない念力が世間を惑わしましたが、念の力とは、散乱する心を安定し静まった心に導く力なのです。
 そのことを「念から定が生じる」といいます。そしてさらに「定から慧が生じる」といいます。このように心を念・定・慧と展開させることが大切です。
 そのためには第23詩句のブログで述べたように禅定を修しなければならないのです。私たちは、「念」から、
「あれこれと去来する記憶ではなくて、なにか一つの記憶を心の中に維持しつづけことの大切さ」
を学ぶことができます。そして、日常の何事でもいい、その事になりきり、なりきっていく生活を心掛けていこうではありませんか。
 次に「法にしたがって生活し」を考えてみましょう。法(ダルマ)には次の二つの意味があります。

釈尊によって説かれた「教え」
②教えがそこから流れでてくる「真理」

「教え」は「真理」から流れ出たものですから、両者は関係し合いますが、上記の「法にしたがって生活し」の中の法は①の教えとしての法であると解釈します。
 これに関して唯識思想が説く「法隨法行」という修行を紹介してみましょう。
 この「法隨法行」は「法行」と「法隨行」とに分けられます。『弁中辺論』では法随法行を法行(dharma-carita)と随法行(anudharma-pratipatti)とに分けて、法行には書写・供養・施他・若他誦読専心諦聴・自披読・受持・正為他開演・諷誦・思惟・修習行の十種の行があり、随法行には無散乱転変と無顛倒転変との二種があると説かれています。
 このうち前者の法行とは釈尊によって説かれた正しい教え(法)を本体とし、根拠とする修行をいい、写経する、供養する、読誦する、思惟するなどの身体的・言語的・精神的な具体的行為(身・口・意の三業)であり、後者の二種の随法行のうちの無散乱転変はヨーガのうちの止(奢摩他)、無顛倒転変は観(毘鉢舍那)を修することであると説かれています。
 このように、「法隨法行」という生き方の中にも、心を明鏡止水の如くにする「止と観というヨーガ」を修することの大切さが強調されています。
 私が最近、大きく問題視しているのは、たとえば電車の中で、時には歩きながらでも、携帯を操作しつづけている若者が急増していることです。かれらはもう情報の洪水に翻弄されて、静かに自ら思索する時間が皆無です。こういう若者が担う未来の社会はどうなるのか、と憂うのは、私一人ではないでしょう。
 「若者よ、時には吐く息、吸う息になりきり、なりきってみようではないか!」
と訴えて、今回のブログをおわります。、

「唯識で読み解くダンマパダ」(24)〜禅定を修して涅槃に触れる〜

(ブログ26)
今回は第23詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。
 (第23詩句)
 かれら(賢人たち)は、禅定を修する人で、忍耐つよく、つねに勇敢に修行し、
  賢明な人びとであって、無上の安隱なる涅槃に触れる。

 この詩句での主語は、前の詩句をうけて、「賢人たち」すなわち「パンディタ」であり、かれらは、この詩句の後半で「賢明な人びと」すなわち「ディーラ」と言い換えられています。そして、そのような賢人たちの修行のありようが、「禅定を修する人であり、忍耐つよく、つねに勇敢に修行し」と説かれています。
 このなかの「禅定を修する人」について説明してみます。このサンスクリットは「ドゥヤーイン」で静慮者と訳されるように、静慮を修する人という意味です。こ静慮の原語は「ドゥヤーナ」で、禅那と音訳され、那が省略されて「禅」と表記されます。坐禅をする、禅を組む、などといわれるときの禅がこれにあたります。また、この原語は「定」と意訳されることから、二つを合わせて「禅定」という場合がありますので、上記の詩句ではこの表記を採用しました。
 釈尊は初めバラモン教の師について苦行を修し、それをやめて、菩提樹の下で禅定を修して悟りを得られたのです。釈尊の修行の形態は苦行主義から禅定主義に移ったのです。これによって、禅定を修することがいかに重要かが分かります。また上の詩句でもそれが歌われているのです。
 これまでの説明で、禅=定=静慮であることがわかりましたが、静慮とは、「心を静めて思慮すること、あるいは、心が一つの対象にとどめおかれて平等となった状態」をいいます。
 私たちは本当に心を静めて考えることがありません。いつもあれを考え、これを思って、心は波立つ水のごとくです。影像と思いと言葉とが入り乱れ、錯綜する状態が日常の心のありようです。
 そのような心のありようばかりでは、物事の真相を見ることなく生きていることになります。ときには禅定を修して、明鏡止水のごとくに心を静める時間を設けてみましょう。
 一人一宇宙の心の中に静かに住して、吐く息、吸う息になりきり、なりきってみましょう。そして「一体なにか」と考えてみましょう。
 朝、夕でもいい、これを毎日つづけていくと、住む世界が違ってきます。不思議と、「よし生きるぞ」という勇気と情熱とが湧いてきます。
 話を詩句に戻します。
 このように禅定を修する賢明な人びとは「無上の安隱なる涅槃に触れる」と説かれています。「安隱なる涅槃」の涅槃の原語は「ニルヴァーナ」、安隱は「ヨーガ・クシェーマ」です。
 まず「涅槃」について。原語「ニルヴァーナ」は「火が吹き消される」が原意で、「煩悩を滅した寂静な状態」をいい、仏教が目指す最高の心境をいいます。
 涅槃のありようは、三法印の一つである涅槃寂静では「寂静」(シャーンタ)といわれます。また『ダンマパダ』の中では、第203詩句で「最上の楽(スッカ)である涅槃」、第226詩句で「心の汚れ(漏アースラヴァ)を滅した涅槃」、第369詩句では「貪と瞋とを断じて涅槃に趣く」と説かれています。
 このように涅槃は種々に形容されていますが、この第23詩句では「無上の安隱なる涅槃」と説かれています。この中の「安隱」の原語は「ヨーガ・クシェーマ」で利得(ヨーガ)と安楽(クシェーマ)とからなる合成語で、涅槃の同義語として用いられる語です。
 このように涅槃を原語からいろいろと定義してきましたが、簡潔にいうと、涅槃とは、
 「汚れである煩悩を滅して寂静となった心のありよう」
であると言えます。
 そのように心のありように到るためには、第226詩句で「常に目覚め、朝な夕なに修行して涅槃を目指す」ことが要請されています。私たちは、もちろんそのような厳しい修行はできないにしても、前述したように、ときには禅定を修して、吐く息、吸う息になりきり、なりきってみる時間を設けようではありませんか。
 最後に「涅槃に触れる」の触れるについて。この「触れる」の原語は「スプリシュ」で、触覚で知覚することを原意としますが、この語が使用されているのは、「全身全霊で、身心あげてなりきりなりきって涅槃に突入する」という感覚を言おうとしたのではないでしょうか。頭で知るのではなく、「全身で、肌で知る」という感覚のあることを、そしてその重要性を学ぶことができる一句です。

「唯識で読み解くダンマパダ」(23)〜賢人たちの喜びと楽しみ〜

今回は第22詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。

(第22詩句)
このように相違を知って、励むことを能く知る賢人たちは、
励むことを喜び、聖者たちの境界を楽しむ。

この詩句の最初の「このように相違を知って」とは、前の詩句の「励みは不死の境地であり、怠けは死の境地である。励む人々は死ぬことがなく、怠ける人々は死者のごとくである。」という「励むこと」と「怠けること」との違いを知ることです。
 私たちは、日頃から「怠けてはいけない、励み努力しなければいけない」と思っていますが、つい怠ける方に傾いてしまいます。
 でもそういうとき、「怠けた生き方は、生きていながらすでに死んでいるようなものだ」という釈尊の言葉を聞くと、「よし、励み努力しよう!」という思いが深層から心の中に生じてきます。
 しかし、励みが不死の境地に至る道であるということを私たちはまだはっきりと知っていません。なぜなら私たちは、不死の境地がどのようなものかを悟っていないからです。
 でも、この詩句での主人公である「励むことを能く知る賢人たち」はその境地を悟っている人々です。  このなかの「能く知る賢人」の原語は「パンディタ」で、智人、智者、智慧者などと訳されます。励むことが、どのような結果をもたらすかを明白に悟った智慧ある人が「パンディタ」です。 
 明白に悟っているから、「励むことを喜び、聖者たちの境界を楽しむ。」ことになると説かれています。「喜怒哀楽の人生」といわれるように、「喜び」と「楽しみ」とは、生きる上で、心を和ませる二つの大きな感情です。 
 でも私たちの喜びは悲しみに、楽しみは苦しみに変わることがある、生滅し変化しやすいものです。
 でも「励むことを能く知る賢人たち」の喜びと楽しみは、まったくそれとは質的に相違する喜楽なの です。「不死の境地に至ることを目指して励むこと」が賢人たちの喜びなのです。
 では楽しみとはなにか。それが、「聖者(しょうじゃ)たちの境界を楽しむ」と説かれています。
 聖者の定義を記するを以下のごとくです。 

 聖者とは、真理を悟った者。真理を悟り、汚れのない智慧(無漏智)を起した人。見道において四諦 を見究めた以後の人。無漏智をいまだ起していない異生の対。

 このような難しい定義はとにかくとして、簡潔には「聖者とは真理を悟った人」ということができるでしょう。
 ここの文脈でいえば、「人間は死ぬことがないという真理」を悟った人といえます。つぎに「境界」ですが、これについて以前のブログで述べたことを再記します。

 この境界の原語は「ゴーチャラ」でgocaraと綴ります。牛(go)が動きまわる(cara)というのが原意です。牛は牧場の中であちらこちらを歩き回りますが、それから転じて、私たちの認識が行きわたる範囲を意味し、gocaraは所行、所行境、境界などと漢訳されます。上記の詩句では最後の「境界」(きょうがい)をとって「境界に住する」と訳しました。境界は「心境」、すなわち「心の状態」と言い換えることができるでしょう。 

 賢人たちの「楽しみ」は、「人間は死ぬことがない」という真理を悟った心境に住していることであるといえるでしょう。私たちとはまったくほど遠い楽しみですね。

 私たちは、たしかに肉体が衰えて死んでいきます。それは悲しいことです。でも第21、22詩句から、私たちは、努力次第で、「不死」に至ることができるのだ、という希望をもって生きていこうではないかと呼びかけて、今回のブログを終わります。

「唯識で読み解くダンマパダ」(22)〜死ぬことがないのだ〜

今回は第21詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。

(第21詩句)
励みは不死の境地であり、怠けは死の境地である。
励む人々は死ぬことがなく、怠ける人々は死者のごとくである。

まず、「励み(はげみ)」と「怠け(なまけ)」について。
 人間のタイプは、「勤勉な者」と「怠け者」とに、すなわち「はげむ人」と「なまける人」との二つにわかれます。この両者と私たちが生きる中で最後に迎える「死」との関係を述べたのが、この詩句です。
 人にだれしも「励む心」と「怠ける心」との両方がありますが、この詩句は、前者の心の素晴らしいと後者の心の恐ろしさを強調しています。 すなわち「励む心」で生きる人は死ぬことのない不死の境地に住しているというのです。これは素晴らしいことです。
 これに対して、「怠ける心」で生きる人は、生きてはいてもすでに死んでいるのと同様であるというのです。まことに厳しい言葉ですね。
 厳しいが、この詩句は私たちに勇気を与えてくれます。なぜなら、私たちのこの肉体は、衰え、滅びて死を迎えますが、しかし、私たちは、励むことによって生きていながら「不死の境地」に至ることができると説かれているからです。
 境地と訳した原語は「パダ」(pada)です。これには「歩く」「道」という意味がありますが、また「場所」「住所」という意味もあることから、励むことによって死ぬことがないという悟りの境地に住することができるのであると解釈してpadaを境地と訳しました。
 この「不死の境地」は、第114詩句にも説かれています。
「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きるほうがすぐれている。」
この詩句では「不死の境地を見る」と「見る」(パシュ)という表現になっていますが、この「見る」とは、どういうことでしょうか。
 私は、第21詩句を参考にしながら、「見る」を、「励み、努力し、精進しつづけることによって、死ぬことがないのだという確信を得る」と解釈したい。
 もちろん、「見る」の最高のありようは、無上正覚という悟りです。
 私は、インド哲学科に転じて数年後でしたでしょうか、釈尊菩提樹下で悟りを開かれたとき、 「生じることも、老いることも、死ぬこともない世界に触れた」
という言葉を発せられたということを知って、よし、自分もそのような心境になるぞ、と禅の修行に一層精進したことがなつかしく思い出されます。
 釈尊の悟りには到底及ばないにしても、私たちは「確信する」という段階をめざして、励み、努力し、精進したいものです。(確信するとはどういうことか、いずれ他の機会に書いてみたいと思います)
 つぎに、「不死」について考えてみます。不死の原語は「アムリタ」ですが、不死のほかに「甘露」とも訳されます。
 甘露とは中国の伝説で国王が善政を施すと天が降らすという甘味の液をいい、それを飲むと不死に至るという言い伝えによって、不死を意味するサンスクリット「アムリタ」 を甘露と訳したのです。一般に、甘露飴、甘露煮、甘露水などと用いられる甘露です。
 仏教では、不死に至る釈尊の教えを甘露の法といいます。この第21詩句もまさに甘露の法です。

最後に、
「いずれ死ぬ。でも死ぬことがない世界があるのだ。よし、励み、努力し、精進して、この一人一宇宙の心の世界をそのような世界に変えていこうではないか!」
と、呼びかけて、今日のブログを終わります。