「唯識で読み解くダンマパダ」(24)〜禅定を修して涅槃に触れる〜

(ブログ26)
今回は第23詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。
 (第23詩句)
 かれら(賢人たち)は、禅定を修する人で、忍耐つよく、つねに勇敢に修行し、
  賢明な人びとであって、無上の安隱なる涅槃に触れる。

 この詩句での主語は、前の詩句をうけて、「賢人たち」すなわち「パンディタ」であり、かれらは、この詩句の後半で「賢明な人びと」すなわち「ディーラ」と言い換えられています。そして、そのような賢人たちの修行のありようが、「禅定を修する人であり、忍耐つよく、つねに勇敢に修行し」と説かれています。
 このなかの「禅定を修する人」について説明してみます。このサンスクリットは「ドゥヤーイン」で静慮者と訳されるように、静慮を修する人という意味です。こ静慮の原語は「ドゥヤーナ」で、禅那と音訳され、那が省略されて「禅」と表記されます。坐禅をする、禅を組む、などといわれるときの禅がこれにあたります。また、この原語は「定」と意訳されることから、二つを合わせて「禅定」という場合がありますので、上記の詩句ではこの表記を採用しました。
 釈尊は初めバラモン教の師について苦行を修し、それをやめて、菩提樹の下で禅定を修して悟りを得られたのです。釈尊の修行の形態は苦行主義から禅定主義に移ったのです。これによって、禅定を修することがいかに重要かが分かります。また上の詩句でもそれが歌われているのです。
 これまでの説明で、禅=定=静慮であることがわかりましたが、静慮とは、「心を静めて思慮すること、あるいは、心が一つの対象にとどめおかれて平等となった状態」をいいます。
 私たちは本当に心を静めて考えることがありません。いつもあれを考え、これを思って、心は波立つ水のごとくです。影像と思いと言葉とが入り乱れ、錯綜する状態が日常の心のありようです。
 そのような心のありようばかりでは、物事の真相を見ることなく生きていることになります。ときには禅定を修して、明鏡止水のごとくに心を静める時間を設けてみましょう。
 一人一宇宙の心の中に静かに住して、吐く息、吸う息になりきり、なりきってみましょう。そして「一体なにか」と考えてみましょう。
 朝、夕でもいい、これを毎日つづけていくと、住む世界が違ってきます。不思議と、「よし生きるぞ」という勇気と情熱とが湧いてきます。
 話を詩句に戻します。
 このように禅定を修する賢明な人びとは「無上の安隱なる涅槃に触れる」と説かれています。「安隱なる涅槃」の涅槃の原語は「ニルヴァーナ」、安隱は「ヨーガ・クシェーマ」です。
 まず「涅槃」について。原語「ニルヴァーナ」は「火が吹き消される」が原意で、「煩悩を滅した寂静な状態」をいい、仏教が目指す最高の心境をいいます。
 涅槃のありようは、三法印の一つである涅槃寂静では「寂静」(シャーンタ)といわれます。また『ダンマパダ』の中では、第203詩句で「最上の楽(スッカ)である涅槃」、第226詩句で「心の汚れ(漏アースラヴァ)を滅した涅槃」、第369詩句では「貪と瞋とを断じて涅槃に趣く」と説かれています。
 このように涅槃は種々に形容されていますが、この第23詩句では「無上の安隱なる涅槃」と説かれています。この中の「安隱」の原語は「ヨーガ・クシェーマ」で利得(ヨーガ)と安楽(クシェーマ)とからなる合成語で、涅槃の同義語として用いられる語です。
 このように涅槃を原語からいろいろと定義してきましたが、簡潔にいうと、涅槃とは、
 「汚れである煩悩を滅して寂静となった心のありよう」
であると言えます。
 そのように心のありように到るためには、第226詩句で「常に目覚め、朝な夕なに修行して涅槃を目指す」ことが要請されています。私たちは、もちろんそのような厳しい修行はできないにしても、前述したように、ときには禅定を修して、吐く息、吸う息になりきり、なりきってみる時間を設けようではありませんか。
 最後に「涅槃に触れる」の触れるについて。この「触れる」の原語は「スプリシュ」で、触覚で知覚することを原意としますが、この語が使用されているのは、「全身全霊で、身心あげてなりきりなりきって涅槃に突入する」という感覚を言おうとしたのではないでしょうか。頭で知るのではなく、「全身で、肌で知る」という感覚のあることを、そしてその重要性を学ぶことができる一句です。