「唯識で読み解くダンマパダ」(11)〜我々は死ななければならない〜

今回から第6詩句を検討しましょう。
まず、訳を記します。 
 また、他の人々は、「我々は、ここで、死ななければならない」と知らない。 
 しかし、そのような人々が、そこで、(そのことを)知るならば、それゆえに、争いは鎮まる。
 
 まずは、原文を検討しますが、「死ななければならない」と訳した箇所はパーリでは「ヤマーマセー」、サンスクリットでは「ヤムスヤーマ」で、これは、問題のある語のようですが、「yamaすなわち死神に制圧されるべきもの」との解釈をとり、「死ななければならない」と訳しました。次に「他の人々」とは、パーリの注釈書での「賢者を除いた他の愚者」という解釈によるならば、この詩句の前半は「愚者(バーラ)の知」が、後半は「賢者(パンディット)の知」とが対比されて説かれていることになります。
 このような二者の知り方が分かったところで、この詩句全体は、「ここでは、すなわち、この世では、我々は死ななければならない、という事実を知らない人が、その事実を知ることによって争いがなくなるのだ」と主張していることが判明しました。 このなかで、なぜ「死ななければならない」という事実を知るならば、争いが鎮まるのか、という問題を次に考えてみましょう。 
 これに関して参考にすべきは「差別」と「平等」という概念です。怨み、争う人は、自分と他人とは、違うののだと、つまり「自分と他人とは差別あるもの」と知るのです。だから、この認識によって、すでに前のブログで書いたように、いろいろの原因で、他の人々と対立し、怨み、争うことになります。
 ところが、その同じ人が「自分も他人もみんな死ななければならないのだ」という事実を知ることによってなぜ争いが止むのでしょうか。 それは「自分と他人とは平等なるもの」と知ったからである、と私は考えたい。 本当に私たちは一人一宇宙です。だから私たちは「個」と「個」とが対立した差別ある世界に住んでいると考えています。しかし、その世界のありようを深く観察してみると、みんな「死ぬ」という事実をいわば基盤とした存在であることに気づきます。だから、その基盤に立って眺めるならば、一人一宇宙の世界でありながら、すべての個々の世界は平等な世界に変貌してしまうのです。 「自分も死ぬ。他人も死ぬ」「みんな平等に死ぬのだ」と思うと、他人が愛おしくなってきます。 他人だけではありません。地球上に生を受けた生きものが、小さなものから大きなものまで含んで、もう無量無数の生きものが愛おしくなります。 
 私も、もう74歳です。いずれ死ぬのだという思いが若いときと違って、重い事実として私のなかに膨れあがってきています。するとそれと平行して、たとえば、庭でせっせと働く小さな蟻たち、あちこちの木々で囀る鳥たち、電線に止まった雀たち、目の前の川の上を飛ぶ大鷺、小鷺、そういった生きものたちが愛おしく感じられるようになりました。今は生きている、でもいずれ死んでいくのだ、「死ぬまでどうか元気で生きてほしい」と声をかけたくなります。 
 人間に話をもどしましょう。前に、この詩句全体は、「ここでは、すなわち、この世では、我々は死ななければならない、という事実を知らない人が、その事実を知ることによって争いがなくなるのだ」と主張している、と述べましたが、このなかで「事実」という表現を用いました。この事実を真理と言い変えることができます。「それは事実だ」を「それは真理だ」ということができますね。この「真理」には、これを喩えでいえば、「紙の表の真理」と「紙の裏の真理」との二つがあります*。私たちは一枚の紙を見るときに、表ばかりを見て裏を見ません。でも紙は裏があって表があるのです。
 第6詩句で、「我々は、ここで、死ななければならない」という事実、すなわち真理は、いわば紙の表での真理です。しかし、釈尊は紙の裏での真理、すなわち「我々は死ぬことはない」と『ダンマパダ』の随所で語っています(第21,86、114、412詩句)。(不死については、また別の機会にブログで考えてみます。)
 次に、「知る」という「知」のありようを検討してみます。第6詩句の後半で、「そのような人々が、そこで、そのことを(=死ななければならないということを)知る。」という「知」のありようは、知ではなく「智」というべきです。 愚者が実践によって賢者となると、その人の認識のありようが、知から智に変化したといえるでしょう。 <唯識>に「転識得智」という重要な教えがあります。否、これは<唯識>だけではなく仏教全般に通じる思想です。その思想は、「識を転じて智を得る」という内容です。「識」とは、自と他とが対立する差別の世界をしる認識です。これに対して「智」とは、自他の対立がなくなった平等の世界をしる認識です。「識る」は「知る」ことですから、「識を転じて智を得る」は、「知を転じて智を得る」と言い換えることができます。
 これまでの詩句で取り上げられた「怨み」や「争い」は、その種類や内容に相違があるにしても、本当に私たちの心を掻き乱す心の汚れです。
 私の中のこの汚れをなくすために、私は、「死すべく存在である」という事実を深く心の奥に刻印して、その上で、この一人一宇宙の世界を「知の世界」から「智の世界」に変貌せしめることを目指して、日々の生活の中で、いま・ここになりきり、なりきってい生きていこうと念じる昨今です。

 *「紙の表の真理」を世俗諦、「紙の裏の真理」を勝義諦といいます。