「唯識で読み解くダンマパダ」(9)〜「怨む心」から「怨みなき心」へ〜

 今回から第5詩句を読んでいきます。
(第5詩句)
 実に、いかなる時でも、怨みを以っては怨みを静めることはできない。
 ただ、怨みなき(心)も以って静めることができる。このことは永遠の真理である。

 第3,4詩句で、他人を怨むことによって心が縛られることが説かれたが、この第5詩句では、では、その怨みを心の中から除去するにはどうすればよいか、が説かれている。
この説法は、まことに簡潔である。怨みは同じ怨みではなくすことはできない、怨まないことによって怨みを除去することができる、と説かれているのです。
 この説示は、誰しもが納得する簡潔な内容です。もちろん実行することは難しいですが。
「怨みを以っては怨みを静めることはできない。」――― まことにそうです。怨みを怨みで返せば、怨みがますますつのり、増大して、心は一層重くなっていきます。
 なぜ、重くなっていくのでしょうか。それは、表層の心のありようが、即座に、深層の心にその影響を与えるからです。<唯識>は、そこを「現行が種子を熏じる」と説きます。「現行」すなわち表層の心のありよう(この場合は「怨む」という心)が深層心である阿頼耶識に影響を与える、すなわち種子を熏じる、すなわち植え付ける、というのが「現行が種子を熏じる」という意味です。
 だから、怨むたびに、ますます汚れた種子が増えつづけ、深層から心が一層濁っていくのです。
 ではどうすればいいか。それが「怨みなき(心)も以って静めることができる。」と説かれています。
 しかし、そうはいっても、なにかをされて怨みを懐いた人に怨まない心で接することは難しい。
 でも、<唯識>が説く次の考えを、とにかく実践してみてください。
 妻はよく「さっきゴキブリを退治したよ」とさっぱりした顔でいいます。この「退治」を<唯識>では「対治」といいます。この対治は生き物などを退治するのではなく、対治という言葉から分かるように「対になったもので治す」ことです。
 たとえば三大煩悩として貪(むさぼり)と瞋(いかり)と癡(おろかさ)がありますが、この三つの煩悩をなくすためには、順次、無貪と無瞋と無癡の心を起こせばよいのです。
 いま問題となっている「怨み」をなくすためには、「怨まない心」を起こせばよいのです。
「怨」を「無怨」が対治するのです。 怨心を無怨心で対峙するのです。するとその時だけは怨心はなくなっています。でもまた阿頼耶識の中の怨む心の種子が芽を吹いてきます。その時、また無怨心を起こしてみる。
 これを繰り返すと、阿頼耶識の中の怨心の種子を無怨心の種子が征服してしまいます。
 もちろん長く繰り返す必要があります。そうしていたら、怨んでいた相手も変わってくるかもしれません。
 一人一宇宙の人間同士ですが、深いところにある不思議なものでつながっているのかもしれません。(この「深いところにある不思議なもの」についてはいつかお話してみたいと思います)
 『瑜伽師地論』では、『ダンマパダ』の詩句の「怨み」にあたるサンスクリットvairaが怨嫌と訳されていますが、それを含んだ次の一文を記して、今回のブログを終わります。

「菩薩は已に怨ある有情に慈心を起こして、彼の怨嫌の心を自然に除断せしむ」
 相手も変わってくるのですね。