仏教は宗教ではなく哲学である

『月刊私塾界』の12月号(全国私塾情報センター:http://www.shijyukukai.jp/)に掲載された私のインタビューの記事を紹介します。


仏教は宗教ではなく哲学である
 今回は仏教と、そのほかの宗教との違いについて考えてみましょう。まず哲学ですが、哲学とは詳しくは希哲学と書き、(sophia=知)を希う(philo=愛する)学のことです。しかしそれは決して今でいう学問ではなく、知を愛し追い求める人間の営みを意味します。古代ギリシャの哲学者プラトンは、フィロソフィア、すなわち知を愛する道を歩くことによって霊魂を浄化し、死ぬときに肉体という衣を捨てきって、イディア(=ものごとの真実在)の世界に移り住み、真実在を観照しつつ神々と共に永遠に幸せに生きようと人々に訴えました。つまり「知」とは究極の真実在をしる智慧のことです。
仏教も「究極の真理をしる智慧を身につけていこう」という点においては哲学と同じです。但し両者が説く「真実在」と「真理」とは相違し、当然それらをしる「智慧」の内容も違ってきます。
 それはともかく、現代の欧米の国々では仏教を宗教と捉える人はほとんどいなく、ほとんどの人が、仏教はむしろ哲学であると捉えています。
 それでは、ソクラテスプラトンなどによって唱えられた古代哲学と、仏教とが違う点はどこにあるのでしょうか。それは身体を重視しているか否かにあります。プラトンは、前に述べたように、霊魂と肉体(=身体)とを峻別して「霊魂を浄化して、死ぬときに身体という衣を脱ぎ捨てる」ことを目指しますが、仏教、特に唯だ識すなわち心しか存在しないと主張する唯識思想は瑜伽(ヨーガ)という実践を通して、深層の心までをも解明した人々によって創唱された思想ですから、ヨーガを修するには足を結跏趺坐に組む、背筋を真っ直ぐに伸ばすなどの身体のありようが大切であると強調します。もともと身体と心とは別々のものではなく、身心一如と言われるように両者は区別されないものです。これは、たとえば吐く息、吸う息に成りきり、成りきって静かに坐ってみると分かってくる事実です。
 もう一つ仏教が哲学といわれる理由は、言葉の起源と言葉の働きと言葉の束縛とを細かく分析して、世界でもまれに見る言語論を展開した思想であるからです。仏教の言語論については割愛しますが、そのエッセンスは
  「すべての現象は言葉によって作られてものにすぎない」
という主張です。これも事実です。たとえば「自分は死んだら地獄か極楽のどちらに生まれるのだろうか。それともまったく自分は無になってしまうのだろうか?」と考えて悩み、ときには不安になります。しかし、このように考えるのは、すべて「言葉」によって考えるという事実に留意してみてください。そして「自分」というのは言葉の響きがあるだけであり、「死んだら」というのは、「いま生きているが、いつか死ぬ」と言葉で考えて、そこに時間を設定しますが、「時間」も言葉の響きがあるだけですし、「地獄に生まれるか、極楽に生まれるか」と言ってそこに地獄や極楽という空間を設定しますが、その「空間」も言葉の響きがあるだけです。そして最も気づくべきは、死後有りつづけるか、虚無になるか」と考える中には有と無という言葉が生じますが、よくよく心の中を観察すると、「有」と「無」とは、本当に心の中の塵・ほこりですね。
 だから死後の不安や恐怖をなくすためには、思いと言葉をなくせばいいのです。その一つの方法が、たとえば、吐く息、吸う息に成りきり、成りきっていけばいいのです。そうした実践をおこなうことによって表層心のありようが変わり、ひいては深層心が変わってきます。そうすれば心が深層から浄化されて、すっきり、さっぱり、爽やかに生きることができるようになります。

仏教と宗教との相違点
 仏教では信仰の対象として、超越者である「神」というものを立てていません。仏教でも「仏を信じなさい」と説きますが、その「仏」とは、キリスト教の神のような存在ではなく、自己の本性としての清らかな心、専門的には「自性清浄心」と言います。したがって、自己の中にあるそのような清らかな心を信じることが、仏を信じることです。だから仏像を拝むということは、自分の心を拝むことです。つまり、言い換えれば、心というものを視覚化し、より人々に分かりやすくしたのが仏像だといえます。こうした成り立ちを踏まえると、仏像の作られた年代や作者などに興味を持つよりも、仏像を拝むことで自分の心を見つめ直すことのほうがよっぽど大切だといえますね。
 一方、キリスト教をはじめとする多くの宗教では神を立て、その神を信じることを求めています。人間の心は欲望によって汚れた状態にあるとするキリスト教では、神に祈ることによって自我への執着をなくそうとしているのです。それに対して仏教では、自我への執着をなくすために、さまざまな修行が説かれますが、その一つが坐禅を実践することです。たとえば、吐く息、吸う息に成りきり、成りきって、この執拗な自我をその息の中に、いわば融解させていくのです。
キリスト教が神を信じることで救いを求める「他力」なのに対し、仏教は自ら坐禅などを修することによって救いをもとめる「自力」であると言うことができます。

死に関しての仏教とキリスト教との合致点
 とはいえ、仏教とその他の宗教とで共通している部分もあります。それは、どの宗教も「生死の苦しみから解脱する」という大テーマを持っているということです。生死の苦しみとは即ち、生きることの辛さや、死への恐怖です。
 私は立教大学の大学院のゼミで旧約聖書を学生と読んだことがあるのですが、旧約聖書の冒頭の物語は、つまるところ「人間はなぜ死すべき存在となったのか」といった理由を考えて書かれたのですね。洋の東西を問わず、「死」とは人間にとって一番怖いものなのです。その原因をさかのぼっていくと、旧約聖書ではそれを原罪に求めていますが、原罪を心理的に解釈してみましょう。するとそれは欲望が原因となって罪を犯したことがわかります。なぜなら林檎の実を食べることを神から禁じられていたのに、蛇の誘惑に負けて、エバが林檎の実を見ると「いかにも美味しそうだ」という感性的欲望がおこり、さらに「それを食べると神のように眼が開ける」という知性的欲望がおこって、二つの欲望に負けて実を取って食べてしまうという物語です。ここには感性と知性との二つの欲望が原因となって、乃至、男も女も「死すべき存在」となったと語られているのです。
 仏教も、同じように、無明という知的迷いと渇愛という情的欲望とによって、すなわち「煩悩」が原因となって生・老死という苦が結果すると説きます。キリスト教も仏教も人間の中にある汚れた欲望が「死」をもたらすと説く点では同じです。
 少し脇道に入りますが、「煩悩」というものはある意味ではとても役に立つものです。かくいう私にも煩悩があります。たとえば酒を飲みたいとか、女房と死に別れたくないとかいう欲望です。もし100%煩悩を消し去ることができたら、生きていくエネルギーさえ失ってしまうかもしれませんね。だから煩悩は30%ぐらいあってもいいんじゃないかと思っていますが(笑)。それなくしては修行に打ち込むこともできないでしょうし、生きようというエネルギーが湧いてこないと思うのです。
 それから、先ほど坐禅を組むという実践によって自我への執着をなくすというお話をしましたが、それはどういうことかと言いますと、自分と他人を区別することなく、「成りきり、成りきって生きていく」ということです。私たちは「いま・ここ」にしか生きられません。にもかかわらず多くの人が過去を憂い、そして未来を案じて苦しんでいる。しかし坐禅を実践することによって、「いま・ここ」に生きていくことができます。生死の苦しみから脱却するためには、坐禅を実践することによって「いま・ここ」に成りきっていくことが必要です。

科学と哲学の側面を持つ唯識思想
 最後に唯識思想に触れてみましょう。唯識思想は「唯だ識、すなわち心しか存在しない」と主張しますが、これは事実です。
自分がその中心にいて認識する全ては心の中の現象です。つまり、「自分が認識できる一切は心である」のです。心を離れては、なにも存在し得ません。自分が具体的に認識できるものは、心にある存在なのです。たとえば私たちが抱く恐怖にしても、結局は心で作り上げたものに過ぎないわけです。このことに気付くことができれば、自ずとその人の生き方も変わっていくでしょう。
 それから、唯識思想は科学と哲学の両方の側面を持っていますが、その点について考えてみます。なぜ唯識思想が科学であると言えるか。それは唯識思想の根源的追求は、「存在とは一体なんであるか」と探求することです。科学も同じような追求をしていますが、科学者は、私たちの外界に向かって探求を進めています。量子力学はミクロの世界を探求し、宇宙論者は外界の広大な世界へ目を向けています。しかし、科学のどんな分野を扱うにしても、人間はその存在を観察する「観察者」であることに変わりはありません。つまりは宇宙論者も科学者も、心の中の現象なり出来事を観察して追求をしているのです。坐禅をする人も心の内の現象に向き合い、科学者も心の外の現象を追求しているとは言え、その現象は実は心の中の現象なのですね。でもここで考えみてください。「外」がなけれ「内」もないですね。
少し話が飛躍しますが、結局、行き着くところには「内も外もない」ということになりなます。このことをお分かりいただけるでしょうか? 人間は情報とか言葉だけで存在を認識しようとしますが、一度、有と無という根源的な言葉を使って、「有るよう無いし、無いようで有る」と幾度も大声で叫んでみてください。不思議な気持ちになります。