言葉によって作られた物語で戦争を犯す

 岐阜市にある臨済宗専門道場・瑞龍寺http://www.zuiryo.com/)の清田保南老師から寺報『瑞龍たより』を送っていただいていますが、
第77号に掲載されている老師の巻頭文を紹介します。
 多くのことを学ぶことができる有り難い文章です。
 
 芥川龍之介の作品に「桃太郎」という短編がある桃太郎が鬼ヶ島に鬼の征伐に出かける昔話を鬼の側
から描いた話である。むかしむかし谷川でお婆さんが川で洗濯をしていた。そこへどんぶりこどんぶりこと大きな桃が流れてきた。家に持ち帰り割ってみると中から赤児が出てきたので桃から生まれた桃太郎を名付けた。
 桃から生まれた桃太郎は鬼ヶ島の征伐を思い立った。思い立った訳はなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。
 その話を聞いた老人夫婦は内心この腕白者に愛想をつかしていたときだったから、一刻も早く追い出したさに、旗とか太刀とか陣羽織とか、出陣の支度に入用のものは云うなりに次第に持たせることにした。のみならず途中の兵量には、桃太郎の注文通り黍団子さえこしらえてやったのである。桃太郎は道中犬と猿をキジを家来にして意気揚々鬼ヶ島征伐の途に上った。
 鬼ヶ島は絶海の孤島だったが、世間で思っているような岩山ばかりだったわけではない。椰子が聳え極楽鳥が囀ったり、美しい天然の楽土だった。そういう楽土に生を享けた鬼は勿論平和を愛していた。熱帯的風景の中に琴を弾いたり踊りを踊ったり、頗る安穏に暮らしていた。桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。鬼は金棒を忘れたなり、「人間が来たぞ」と叫びながら椰子の間を右往左往にげ回った。「進め、進め、鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ」
 椰子の林は至る所に鬼の死骸が累々とした。鬼の酋長はおそるおそる桃太郎に質問した。「私どもはあなた様に何かご無礼でもいたしたためにご征伐を受けたことと存じます。しかし私たち鬼ヶ島の鬼はあなた様にどういうご無礼をいたしたのやら合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明かし下さい」。桃太郎は悠然と、日本一の桃太郎が家来を召し抱えたため、何より鬼を征伐したいがために来たのだと答えた。鬼たちは自分が征伐される理由がさっぱりわからないままに皆殺しにされてしまったのである。
 笑い話ではない。つい最近まで、いや現在でもこれと同じことが起こっていないだろうか。アメリカインディアンは白人とみれば理由もなく襲いかかってくるどう猛な民族で、力を合わせて撃退することが美談とされた。アフリカのマウマウ団と言えば、呪術を用いて人々を暗殺する危険な集団で、平和な暮らしを守るために撃退しなければならない悪の巣窟と見なされていたのである。しかしこれらの考えは土地を侵略した側が作った、身勝手な物語であった。不公平な取引をさせられ伝統と文化を捨てることを強いられた人々が抵抗している姿を、悪魔の仕業のように語っていたのである。私たちは物語を作った側にいただけなのだ。インディアンやマウマウ団を生み出した側に居れば、自分たちの文化や暮らしを踏みにじった人々は鬼ヶ島にやってきた桃太郎のように映ったに違いない。
 ゴリラの研究を永年続けている山際寿一京都大学霊長類研究所教授が大変興味深い話を書いている。山際さんは二十六歳から六十歳になる今日まで、アフリカのジャングルにせっせと通い、ぞっこんゴリラに惚れ込んでしまった。研究を進めてゆくうちに、ゴリラがいかにいかに穏やかで平和な動物なのか、また同時にゴリラを通してヒトという動物についても思うところが出てきた。ある日突然豪雨に見舞われ木の洞へ逃げ込んだ。すると雨宿りのためにタイタスという顔見知りの子供ゴリラが入ってきた。狭い洞は二人で身動きもできず雨が通り過ぎるのを待った。程なくするとタイタスは自分の肩にあごを乗せてスースー寝息を立て始めた。人間に飼い慣らされていない野生の動物が体を預けて眠っている。誇らしいようなくすぐったいような気持ちで一杯になった。タイタスは家族は密猟者に襲われ、父親やたくさんの友人を殺された。母親や姉さんは 別の集団に移り、ようやく乳離れしたばかりの四歳の時のことである。タイタスにとって人間は許せない敵のはずである。にもかかわらず人間の自分を信頼して、無邪気に自分の肩にあご乗せて寝息を立てていた。それは覚えていないからであると言う人もいるが、彼らの記憶はとても良いのである。それでもなお受け入れてくれる懐の深さ、彼らが持っているしなやかな力強さではないだろうか。(中略)
 かってアフリカを暗黒大陸、ジャングルを悪の巣窟と見なしたのは欧米人の幻想だったのである。欧米各国がアフリカを殖民する格好の理由にしたのである。今もこうした誤解に満ちた物語が繰り返し作られている。9・11の後、アメリカはイラク大量破壊兵器を持ち、世界の平和を脅かすと決めつけて戦争を始めた。一方アルカイダアメリカ人をアラブの永遠の敵と見なし、自爆テロによってニューヨークの世界貿易センタービルを破壊した。イスラエルパレスチナも互いに相手を悪として話を作り、和解の席に着こうともしない。中国の抗日教育や繰り返し作られる抗日ドラマ、虐殺場面をことさらに強調し、子々孫々まで語り伝え恨みを世代を超えて語り継いでゆき、果てしなく戦ってゆく。
 人間は話を作らずにはいられない性質を持っている。言葉を持っているからだ。私たちは世界を直接見ているわけではなく、言葉によって作られた物語の中で自然や人間を見ているのだ。言葉を持たないゴリラには善も悪もない。自分に危害を加えるものには猛然と戦いを挑むが、平和に接するものには暖かく迎え入れる心を持っている。人間が過去の怨念を忘れずに敵を認知し続け、それを世代間で継承し、果てしない戦いの心を抱くのは、それが言葉による物語をして語り継がれるからである。言葉の壁、文化の境界を越えて行き来してみると、どこでも人間は理解可能な温かい心を持っていることに気づかされる。個人は皆やさしく思いやりに満ちているのに、なぜ民族や国の間で理解不能な敵対関係が生じるのだろうか。人間が自然の中で暮らすことをやめてしまった今、使われていない能力が沢山ある。頭で考える前に自分の」、自分の体に聞いてみることを意識すると、これからどんな社会を作ったら良いのかのヒントを見つけられるかもしれない。それには人間を映し出す鏡が必要だ。ゴリラはその良き鏡になってくれている。


 深い示唆に富んだ内容です。
 「私たちは世界を直接見ているわけではなく、言葉によって作られた物語の中で自然や人間を見てい  るのだ。」
 まさしくそうです。
 保南老師はテロや戦争に触れられておられますが、本当に私たち人間は誰かが作った「物語」通りに現状を把握して、その結果、あの国の人は敵なのだと思い込んで、その挙句に過去に戦争に巻き込まれ、また現に巻き込まれようとしているのです。
 敵対関係を生み出す、そのような物語を作ったのは「誰」でしょうか。
それは、いつの時代でも、一人握りの「戦争を好む為政者たち」です。芥川の短編に描かれている「鬼を征伐したい桃太郎」のような為政者です。
 為政者だけではありません。彼らの作った物語に惑わされて戦いに賛同する民衆にも責任があります。
 「戦争こそ人間が犯す最大の愚行である」ということは誰もが認めます。それなのに作られた物語に踊らされて、愚行に協力してしまう。
 では愚行に走らないためにはどうしたよいか。それは保南老師が言われているように
  「人間は理解可能な温かい心を持っている」
   ことに、換言すれば
  「自分の心の底にはゴリラのように敵を受け入れる懐の深さ、しなやかな力強さがあるのだ」
  という自らの尊厳性を自らの体で感じることが大切ではないでしょうか。