橋本凝胤長老との思いで

久しぶりにブログを書きます。今回は橋本凝胤長老についての思い出を記してみます。長老は昭和の世に天動説を説き、週刊朝日の誌上で徳川無声氏と激論を交わしたことで有名ですが、今回は、私の思い出のなかでの長老についてのお話をさせていただきます。私は30歳の頃に本郷にある東京大学仏教青年会で主事をしていましたが、その頃、長老は月1度、わざわざ奈良から本郷にある東京大学仏教青年会にお見えいただき、唯識思想の講義を開いてくださいましたが、私もその講義を拝聴させていただきました。私が唯識思想に触れた最初が長老の講義でした。厳格で威厳に満ちたお顔で、難しい唯識思想を淡々とお話になられる姿はいまでも私の脳裏に鮮明に焼き付いております。講義のなかで毎回説かれた「心内の影像を心外の実境と見るな」という言葉が、今考えてみますと、唯識教理に基づいた生き方の、まさにエッセンスを表したものであると痛感しています。「心内の影像を心外の実境と見るな」とは、「私が認識するすべての存在は、心の中に存在するものであるのに、それが心の外に存在する実体的なものと見間違ってはならないのだ」という意味です。本当にそうです。見るもの、聞くもの、ないし考えるものは、すべて心の中に有るのに、見たとおりに、聞いたとおりに、考えたとおりに、それが心を離れて有ると考え、それらのものに執着し惑わされるところに苦悩が生じてきます。たとえば、私がある人と対立してその人を嫌いになるとします。そしてその人が眼の前に現れた時、「憎い」と思ってしまいます。しかし、「憎い」という結果が生じる過程を静かに心の中で観察してみると、憎いと思うことは錯覚であったことが分かってきます。長老の前述した言葉でいえば、「心内の影像を心外の実境と見てしまった」のです。その人と会った瞬間の「その人」は私の心の中の視覚データ、すなわち、「影像」ですが、その影像に私が憎いという「思い」と、憎いという「言葉」とを付与し加工して、そのように加工した人が、厳として私の眼の前に存在するのだと思い込んでしまうのです。このように心の中のメカニズムを観察し思惟してみると、「憎むことは錯覚である」というがはっきりと確認されます。私はもう一度長老の「心内の影像を心外の実境と見るな」の言葉を声高々に叫び、その言葉を深層心にまで響かせたい。このブログを読まれた方も、そのように試みてください。すると他人のなかで生きることがだいぶ楽になるのではないでしょうか。次の長老についての思い出は、講義の後で控え室でお茶を飲みながらお話をお聞きしたしたときのことです。当時私は怖がりで、幽霊が怖かった。そこで、長老に「幽霊はこの世に存在しますか」と尋ねてみました。すると長老はその質問を無視したかのごとく、なにもお答えになりません。そこで私はもう一度、「長老様、幽霊はいるのですか」と尋ねましたが、なにも返ってきません。私は顔がだんだん赤くなることに気づきながらも、勇気を出してもう一度「「長老様、幽霊はいるのですか」と強く質問しましたが、またしても反応がありません。私の顔の赤面は極限に達しました。
 後に、仏教のなかで「捨置」という教えを学ぶことで、あのときの長老は私に身をもってこの教えを示してくださったのだということに気づきました。捨置とは、質問に対して、無視して答えずに捨て置く、という態度をいいます。なぜ捨て置くかといいますと、それが質問になっていないからです。たとえば、「牛の角から牛乳が何升採れますか」というような質問です。角から牛乳が採れずはずがないのですから、そのような無意味は質問には答える必要がないのです。
このような態度は釈尊が弟子から次のような質問を受けた時にとられた態度です。ある弟子が「死んだらまったく無になるのですか、それとも有り続けるのですか」と質問したときに、釈尊は無視して捨て置かれたのです。私たちはこの釈尊は態度から、私たちにとって最大の問題である「死ぬ」という問題への解決を学ぶことができます。「私はいま生きて存在する、すなわち、有るが、死んだらまったく存在しない、すなわち、無になるのか」という問は、質問になっていないということを「捨置」という態度で弟子に説き示したのです。
橋本凝胤長老は釈尊に代わって私に「捨置」を示してくださったのです。ありがたい教えであったといまでも深く感謝しています。今回はこれで終わりますが、次回は長老の著書『仏教の人間観』を紹介してみます。