肌を通して体に染み込む言葉

前のブログで哲学の入門書として、斎藤信治先生の『哲学初歩』を紹介しましたが、今日は、斎藤先生のエピソードを書いてみます。
個人的なことで申し訳ありませんが、私と私の妻とは、別々の大学でしたが、二人とも斎藤先生から哲学を学びました。二人にとって唯一の共通の先生です。
先生とは、何度か池袋の西武線の近くでお会いしましたが、お酒がお好きなのでしょうか、赤ら顔をされて、いつも風呂敷を持って歩かれていました。風呂敷の中には講義の資料があったのでしょうか。
 先生の専門は実存哲学でしたので、ハイデガーの話をよくされました。分かり易く、心にしみ込んでくる講義でした。
 その講義の中で、毎回、「人間存在とは浜辺に打ち上げられた魚のようなものだ。最初は、ピチピチと飛び跳ねているが、そのうち、陽にさらされてだんだんと弱まっていくものだ。」 といわれたことが、いまでも心に残っています。先生を思い出す度に、この言葉が心の中に生じてきます。 まだ、当時私は若かったので、自分はそのような人間にはならいないぞ、ハイデガーがいうように「空談に耽ることなく、死を先取りして生きよう」と思いました。
 前に橋本凝胤長老の思い出をブログに書きましたが、唯識の講義で毎回、「心内の影像を心外の実境と思い間違うから生死輪廻するのだ」と語られた言葉も今でも、長老の厳粛なお姿とともに私の心に焼き付いています。 本当に、人間存在の本質を言い当てた言葉は心に深く刻むのですね。
 そのような言葉を本を通して読むよりは、具体的に、ある人物から直接聞くことが、それも繰り返し聞くことが大切です。それによって、その言葉を単に頭で理解するのではなく、いわばお腹で理解するからでしょうか。あるいは肌を通して体内にその言葉が染み込んでくるのでしょうか。
 <唯識>は、悟りに達するには、先ず「善友に親近する」ことからはじまると説きます。善友とは「正しい師」のことです。真理がなにか、身をもって説き示していただける人です。悩める私たちは、そのような人に出会うことによって、新たな道を歩むことができます。
 私もこれまでの人生で、有り難くも、幾人かの素晴らしい師に出会うことができました。そのお陰で今の自分に成長してきました。すでに亡くなっておられますが、感謝の気持ちで一杯です。