無常ということ

今回は、万有引力を発見したニュートンの話からはじめてみます。ニュートン万有引力の法則をリンゴの実が木から落ちるのを見て発見したといわれています。それが本当かどうかは分かりませんが、とにかく、彼は「物」が落下するという「現象」を目の前にして、「なぜ」そのような現象が生じるのだろうかと追求した結果、万有引力という法則を発見したのです。いま、発見したといいましたが、その法則を目で見たわけではありません。法則は決して目で見ることはできないからです。したがって、彼は見たのではなく、「彼の心の中に万有引力という法則が現れた」といった方が適切です。「現象」を現象たらしめている「法則」はなにかと、長年にわたって追求し続けた彼の心の中に、あるとき突如として「法則」が顕現したきたのです。
 ここで、いま述べたなかで、「現象」と「法則」という二つの概念に注目してみましょう。「現象」は一人一人の心の中に現れてきます。いま目の前に昨日降った雪が積もった山々を見るとする。その山々は「私」が見ています。また、昨日雪が降った光景を「私」は思い出して心の中にその影像を生じることができます。また明日降るだろうと考えて、その影像を「私」は想像することができます。すこし、くどくどといいましたが、とにかく現象を認識する中心に常に「私」が存在します。「私」という「自分」が存在します。
 ここで今回の題である「無常ということ」に話を移してみます。
普通「無常」というと、日本人は、たとえば、「花のいのちは短くて」というように自然現象のはかなさを無常と捉えます。また「平家物語」の冒頭の「祇園�攫舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。」と文にあるように、人間の栄枯盛衰のはかなさをイメージします。しかし諸行無常の無常は、根本的には「死ぬ」ことを意味します。もっと厳密にいえば、「生まれから変わり死にかわりする」こと、すなわち、「生死輪廻する」ことを意味します。今回は生まれ変わりしに変わりすることまでに話を広げずに、「死ぬ」ということだけを取り上げてみましょう。
「自分はいつかは死ぬ」と考えて、人によって相違するかもしれませんが、自分が死ぬことは怖い、不安だ、寂しい、悲しい、いやだ、などと思います。その思いは、その人の心の中に起こってくる未来の出来事についての思いです、現象です。
 ところで前述したように、現象には自分という中心があります。だから、自分が死ぬことは怖い、寂しい、悲しい、など思うのです。繰り返しになりますが、「死ぬ」という現象の中心に「自分」が存在します。ところで、ニュートンが「物が落下するという現象」は、なにか、なぜか、と追求し続けた果てに「万有引力という法則」が心の中に現れてきたように、私たちも、「無常、すなわち、死ぬという現象」は、なにか、なぜか、と追求し続けていくと、いつかは「無常という法則」が心の中に顕現してくるのではないでしょうか。
 ここで現象を「事」、法則を「理」と言い換えてみましょう。この言葉を用いていうならば、無常には「無常の事」と「無常の理」とがあります。私たちもニュートンに負けることなく、無常すなわち「無常の事」を真剣に追求し続けて、「無常の理」を心の中に顕現せしめるように努力してみましょう。
 すでに心の中に「理」はありますが、その現れを妨げている障害があるのです。満月が雲にさまたげられて見えないように、私たちの心の中の障害が「理」の現れをさまたげているのです。
その障害が、現象の中心に存在する「自分」です。この「自分」という障害を取り除いてみましょう。捨ててみましょう。放下してみましょう。すると「死ぬ」という事の理が現れて、死が新たな様相として受け取ることができるのではないでしょうか。死ぬことは寂しい、悲しい、恐ろしい、という思いから解放されるのではないでしょうか。
 たしかに「自分は」「自分の」という思いと言葉とをなくすことは難しい。でもその難行にひるむことなく挑戦するところに人生の意義があると私は思います。

(注記)
 1.仏教では、諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印(三つ教えの旗印)という。2.「事」と「理」とは、仏教思想、広くは中国思想の中で使われる用語。3.悟ることを「断惑理証」(惑を断じて理を証する)という。惑、すなわち、煩悩を断じて理を悟る、という。この煩悩の一つが「自分を設定し、その自分に執着することである。4.「自分」への執着を仏教では「我執」という。我を設定するから、さまざまな煩悩が生じる。