月は心の中にある


今日は、よく知られている以下の「アインシュタインタゴールとの対話」から話を始めてみます。

この対話は、1930年、アインシュタインのベルリン・カプートの別荘にタゴールが訪れたときに行われたものです。


タゴール:この世界は人間の世界です。世界についての科学理論も所詮は科学者の見方にすぎません。


アインシュタイン:しかし、真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか?
たとえば、私が見ていなくても、月は確かにあるのです。


タゴール:それはその通りです。しかし、月は、あなたの意識になくても、他の人間の意識にはあるのです。
人間の意識の中にしか月が存在しないことは同じです。


アインシュタイン:私は人間を越えた客観性が存在すると信じます。ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。


タゴール:しかし、科学は月も無数の原子がえがく現象であることを証明したではありませんか。
あの天体に光と闇の神秘を見るのか、それとも、無数の原子を見るのか。
もし、人間の意識が、月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。

私はこの対話では、タゴールの見解に賛同します。なぜなら、私は決して私の意識(以下、心と表記する:注記参照)の外に出たことはなく、私が具体的に見る月は私の心に中にあり、私の心を離れて存在するものではないからです。
アインシュタインは、「私が見ていなくても、月は確かにあるのです。」と断定していますが、この言明には問題があります。正確に言うならアインシュタインも自分の心の外に出たことはないのですから、「私が見ていなくても、月はあるかもしれません。」と推測的に言うべきです。それを「月は確かにあるのです。」と言えば、アインシュタインは、いわゆる素朴実在論者になってしまいます。
アインシュタインは「真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか?」「ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。」
と述べていますが、これも問題があります。
「真理と人間の認識」との関係は後に検討することにして、まず広く「存在と認識」という問題を考えてみましょう。

存在として、いま私の眼の前にあるコップを例にあげてみます。私が眼をつぶってそして眼を開けてみる。するとコップを視覚でとらえます。
この出来事を分析すると、「コップ」と「視覚」という二つの要素があります。
そして、その二つは「コップ」があるから「視覚」という認識が生じ、「視覚」という認識が生じから、「コップ」が存在するようになるのです。
このように「認識」と「存在」とは、きっても切り離せない二つです。このように存在と認識とは相依関係にあるのです。

ここで、もう少し、綿密に両者を分析してみましょう。視覚だけではコップは「存在」しません。視覚という「感覚」で捉えられたものに「コップ」という「言葉」を付与し、初めてそのものは「コップ」となるのです。
ここで留意すべきは。「コップ」がもともと存在するのではなく、「コップ」という言葉で語るから、「コップ」となるのです。
コップだけではありません。広く現象的存在はすべてそうです。現象が言葉で把握されるときに、その現象はその言葉で言われる存在となるのです。
ところで、たとえば、例にあげた私の眼の前のコップは、「いま、ここに」に存在します。 すなわち、現象的存在は、時間と空間という枠の中で認識されるのです。
いま時間と空間を「枠」と言いましたが、カントの言葉でいえば「直観の先天的形式」ということができますが、私は形式と捉えるまえに、「いまと言う時間とここと言う空間とは言葉の響きがあるだけである」と主張したい。
このことを次の問答で証明してみます。

私が、ある人に「いま何時ですか」と質問すると、その人は「いまは 何時何分です」と答える。
そこで私は「いまですよ、本当のいまですよ」と問い詰める。
すると、その人は、しばらく考えて、そして沈黙してしまいます。
その人は真の意味での「いま」は、幅のない一刹那の「いま」であることに気づき、言葉では表現できなくなったのです。
したがって、「いま何時何分である」と認識する「いま」という時間は言葉の響きがあるだけです。

次に空間について考えてみましょう。
私が、コップを例にとって、ある人に「このコップはどこにありますか」と聞くと、その人は、眼の前をさして「ここにあります」と答えます。
そこで私が、「そのここはあなたの外ですか」と質問しますと、「外です」と答えます。
そこで、私は、「あなたは心の外に出たことはないでしょう。だからあなたが見るコップは心の中の影像ですね。」と問い詰めると、「そうです」と答えざるをえません。
そこで私は「あなたが言葉で考える空間的なここというのは言葉の響きがあるだけですね。」と問いかける、その人は「そうですね」と認めます。

このように「いま」という時間と、「ここ」という空間とは、言葉の響きがあるだけである、と結論することができます。
哲学的な時空論、ニュートン力学の時空論、相対性理論での時空論などを論じる前に、まずはこの「時空は言葉が作り出したものである」という事実を確認する必要があるのではないでしょうか。
前述した、アインシュタインの「私が見ていなくても、月は確かにあるのです。」という言は、「認識と存在」との相依性を無視し、さらに言葉で語られた時空を想定しての言明と言えるでしょう。

「現象的存在はすべて言葉で語られたものである」という事実を、唯識思想は「戯論」(けろん)という概念で表現します。
現象を意味するギリシャ語であるphainomenon, 英語のphenomenon にあたるサンスクリット語のpanncaは、「展開すること」というのが原意ですが、
それを唯識思想は戯論と、すなわち、「戯れに論じられたもの」ととらえるのです。
換言すれば、「現象はすべて言葉で戯れにで語られた存在である」と主張するのです。

前に例に出した「コップ」を前にして、コップという存在とそれをコップと認める認識とのありようを静かに心の中で観察してみましょう。
すると「現象はすべて言葉で戯れにで語られた存在である」というのが事実であることが明瞭となります。
するとタゴールがいう「月は、あなたの意識になくても、他の人間の意識にはあるのです。人間の意識の中にしか月が存在しないことは同じです。」
という言明を納得するようになるでしょう。

次に、「真理と人間の認識」について論じてみます。
すでに記したように、アインシュタインは「真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか?」「ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。」と述べています。「
まず、「真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか?」と疑問形の表現ですが、彼は「真理は人間とは無関係に存在する」と言いたいのです。
だから「ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。」と続くのです。
アインシュタインの誤りは、「存在と認識」で論じたように、存在と認識とは相依関係にあるのですから、真理も人間の認識を離れては存在しえないという事実に気づいていないということです。
「真理は独存する」、ではなぜそうなのか、とアインシュタインに問えば、彼はそれに対して、「これこれであるから」と、その理由を明確に答えることはできないでしょう。
「真理とは人間とは無関係に存在する」とは、あくまで推測の域を脱していません。

ところで、真理と認識とを考える際には、どのような真理を、そしてどのような認識をいうのかをまず考慮する必要があります。
彼が意味する「真理」とはどのような真理でしょうか。ピタゴラスの定理のような数理を意味するのでしょうか。もしも数理であるとすれば、数理は人間の心のなかにあるものですから、人間の認識を離れては存在しません。
そうなると、「真理は人間とは無関係に存在する」という言は間違っています。
アインシュタインが意味する真理とはどのようなものであるのか、このことをもっとはっきりとする必要があるようです。

アインシュタインタゴールをはなれて、ここでしばらく唯識思想の考えを紹介してみましょう。
唯識思想では、真理を「理」、人間の認識を「智」という言葉で表わし、両者の関係を次のように説きます。
「理は智によって顕れ、智は理によって生じるj
確かにそうです。真理は人間が認識するから心の中に顕れ、逆に真理を認識する心は真理の存在を前提として可能となるのです。
そしていわゆる「悟る」とは「理智冥合」すなわち、「理と智とが深いところで合体する」ことであると説きます。
もちろん、質量とエネルギーの等価性を表したE = mc2などといった関係式をアインシュタインが発見したことは、「悟り」であったという言うことはできないでしょうが、アインシュタインの心の中で、何らかの意味での「理智冥合」が起こったと言えるのではないでしょうか。

理と智とが合体するためには、実践が必要となります。アインシュタインも実践なくしては、新しい宇宙論存在論を打ち立てることはできなかったでしょう。
では彼の実践がどのようなものであったのか、彼の心の中で展開した思考の内容と過程がどのようなものであったのか、私はそれを知りたくてなりません。たぶん、彼の心は戦う思考の戦場であったでしょう。

アインシュタインの功績は素晴らしい。しかし、彼は思考の戦う場である「心」そのものの中に住して、心のありよう、働き、構造などを観察することがなかったのではないでしょうか。もしそういう実践をしていれば、「私が見ていなくても、月は確かにあるのです。」と断言することはなかったでしょう。

時には、ここ身近な心の中に復帰して、感覚を制御し、言葉による分別を静め、吐く息、吸う息になりきり、なりきってみましょう。
すると、この一人一宇宙の世界が大きく変貌してきます。
外からの情報としての宇宙論も確かに興味を引きます。でもその前に、この己の「心」という一人一宇宙を実感し体験することが先決です。

不思議な息、じっと観察してみましょう。

ヨーガを修して心を静め、心の中に住して心のありよう、働き、構造を観察し分析して、組織大成した思想が唯識思想です。
唯識思想は、科学・哲学・宗教の三面を兼ね備えた世界に通用する普遍的な思想です。
私は、これまでいくつかの唯識思想に関する下記のようは本を出版していますので、それらによって勉強していただければ幸甚です。

唯識思想入門』(第三文明社[レグルス文庫]、1976年(昭和51年))
唯識の哲学』(平楽寺書店、1979年(昭和54年))
『仏教思想へのいざない』(大明堂1984年(昭和59年) → 大法輪閣、2008年(平成20年))
唯識とは何か』(春秋社、1986年(昭和61年) → 2005年(平成17年))
十牛図の世界』(講談社、1987年(昭和62年)
十牛図・自己発見への旅』(春秋社、1991年(平成3年) → 2005年(平成17年))
『わが心の構造』(春秋社、1996年(平成8年) → 2001年(平成13年))
『「唯識」という生き方』(大法輪閣、2001年(平成13年))
『やさいい唯識 心の秘密を解く』(日本放送出版協会[NHKライブラリー]、2002年(平成14年))
十牛図入門 「新しい自分」への道』(幻冬舎新書、2008年(平成20年)
唯識でよむ般若心経』(大法輪閣、2009年(平成21年))
唯識入門講座』(大法輪閣、2010年(平成22年))
唯識仏教辞典』(春秋社、2010年(平成22年))
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』(幻冬舎新書、2011年(平成23年

初心者の方は、『阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』から読み始めてください。

阿頼耶識の発見―よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)

阿頼耶識の発見―よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)

(注記)
 英語のconsciousness、独語のBewusstseinなどが日本に入ってきたとき、その訳語として用いられたのが「意識」ですが、この訳語は、唯識思想が説く八つの識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)の中の意識を借用したと考えられます。唯識思想でいう意識は独特の働きを有するものですので、上記の本文での意識を「心」と言い換えました。