「唯識で読み解くダンマパダ」(6)〜一本のバラを手にして、見るとは何かを追究してみよう〜

第1詩句を読み進めていきましょう。

(第1詩句)
  すべての現象は意を先とし、意を主とし、意から作られる。
  もしも邪悪な意で語り、行うならば、
  彼に苦しみが従うこと、あたかも車輪が車を引くものの跡に従うがごとくである。

 今日は、この中の「(すべての現象は)意から作られる」を考えてみます。
 意を心と言い換えると前述しましたから、「意から作られる」とは、「心から作られる」ということです。
 「心から作られる」の主語は「すべての現象」ですが、前のブログで現象として、心の中に生じてくる「思い出」を採り上げましたが、今回は、私の前に広がる自然を採り上げてみます。
「認識とはどのようなありようか」と深く考えない素朴実在論者は、心は鏡のようなものであり、自然はその鏡に写った映像であり、自分が見るが如くに心の外に存在すると考えます。(この考えを模写説といいます)
 しかし、このような考えが間違っていることは、「人間は一人一宇宙である」という事実を確認すれば容易にわかります。なぜなら、ある一つの山を三人が見るとします。そのとき、その山が厳として一つあるのではなく、三人の心の中にあるのですから、山は三つあるからです。
 ここで突然あの大哲学者・カントに登場をしていただきますが、カントはヒュームの影響を受けて、対象と認識との関係について、いわゆるコペルニクス的転回をしたといわれています。カントはそれまでは「認識は対象による」と考えていましたが、逆に「対象は認識による」ということに気づいたのです。模写説から構成説に変わったのです。
 いま採り上げている例でいえば、「対象」が自然であり、認識は「心」です。したがって、「対象は認識による」は「自然は心による」、すなわち、「自然は心によって作られる」ということができます。
 認識というものは、直観と思惟との綜合によって成立する、というのがカントの根本の考えです。すこし難しい記述のなりますが、カントは、純粋直観と純粋思惟ならびにこの両者から成立してくる純粋認識である先天的綜合判断はなぜ可能かという一大問題を解決すべく、思索を深めていったのです。そして純粋直観として時間と空間の二つを考え、純粋思惟の形式ととして十二のカテゴリーを考えました。
 話がますます難しいなりますので、哲学の入門書として私がお勧めしたい次の本をぜひ読んで、さらにカントを学んでください。

斎藤信治著『哲学初歩』(東京創元社刊)


 ところで、<唯識>を打ち立てた人々は、ヨーガというインド独自の観察方法を通して、表層の心だけではなく、深層の心の領域までにも沈潜し、心の中に展開するさまざまな認識を分析解明して組織大成したのが<唯識>という教理です。
 カントは「物自体」といって物の存在を認めますが、<唯識>は徹底して心の外に「物」を認めません。唯だ識すなわち心のみが存在し、すべての存在するものは唯だ識が変化したものであると主張します。(その主張を唯識所変といいます)
 この主張を具体的に自然を採り上げて考えてみましょう。
 自然の一つ、バラを例にあげましょう。眼を閉じた状態から眼をあけてみると、バラを見る。この見るという視覚は二つの要素から、すなわち一つは「見られるもの」ともう一つは「見るもの」とから成り立っています。「見られるもの」とはバラですが、さて、「見るもの」とは何か、と問うと、それをバラを見るように見ることはできません。なぜなら、あるものをさす指は指そのものをさすことができないように、見つつあるものを見ることができないからです。
 しかし、見られものを見るものが見つつある心の「はたらき」を確認しようと心を落ち着けて観察すると、その「はたらき」に気づいてきます。その気づきは、「うん、いま見ているのだ」という声となって明らかになります。
 すこしややこしくなりましたので、「見る」という認識の中に、次の三つの要素があることをまとめてみます。
 ①見られるもの
 ②見るもの
 ③見られるものを見ていると確認するもの
 いま「もの」といいましたが、それは「心」です。したがって、心にはこれら三つの部分があるのです*。
 否、「ある」のではなく、バラを前にして見るときには、すなわち視覚が起こるときには、<唯識>的にいうならば眼識がはたらくときには、眼識が変化してこれら三つが心の中に「作られた」のです。
 その眼識を作り出す根源が阿頼耶識です。阿頼耶識は眼識だけではなく、他の耳識・鼻識・舌識・身識・意識を、さらには末那識をも作りだす根本心です。
 以上、『ダンマパダ』第1詩句の中の「意から作られる」という部分を<唯識>的に読み解いてみました。
 お読みになったなった方の中には、なかなか理解できない方がおられると思いますが、お暇の折、一本のバラを手にして、それを見て、そこで「見る」ということがどのようなものかを、ご自分で具体的に分析解明してみてください。自分にとって一番身近のものでありながら、なかなかとらえどころがない「心」がすこしは明らかになるのではないでしょうか。

*これら三つの部分を専門用語でいうと、①が「相分」、②が「見分」、③が「自証分」といいます。[rakuten:sharakudou:10017302:detail]