岩の上の松

 今日は、「岩の上の松」の話をいたします。岐阜の美濃太田から車で15分ほどのところにある臨済宗の専門道場・正眼寺の庭にある岩の上に生えた松の木の話です。詳しくは、下記のURLを開いてみてください。
 http://www.hirameki.tv/(「ひらめきと感動の世界」でも開けます)
開いた画面のムービーラインアップの写真が画像の中の「命の力強さ 正眼寺の松」をクリックしてください。
動画の中で、山川宗玄老師がメタセコイアの化石の上に生えた松の木について感動的な次のとうなお話をされておられます。(質問者は私・横山です)

(横山)私はいろいろの禅宗の老師の提唱を聞いたことがあるのですが、皆様が言われることは唯だ一つ「いま・ここになりきりなりきって生きる」という、単純なことですが、これが生きる真髄であるといってもよいのでしょうか。過去・現在・未来という流れの中の現在ではなく、一瞬のいま・ここに生きるということをもう少しわかりやすく説明してください。

(老師)たとえで恐縮ですが、正眼寺の本堂の前の庭の中にメタセコイヤの大きな化石の岩がありますが、その岩のの中に一本の松の木が育っています。今、1メートルにまで成長しています。それは、岩の上に松の実が落ちて根をはって上に芽を出して、多分4,5年でここまで成長したと思われますが、それを見ていると、いまの質問に答えられる気がします。
 多分、松笠がその石の上に落ちたのですね。近くに松の木がありますから。それが暖められて松笠が開いて松の実を石の上に落としたのでしょう。そのままで石の裂けめがなければ育ってなかったでしょうが、松の実が小さな裂け目に入り込んで、そこで雨を待ち、晴れを待って芽をだしたのでしょう。
 これをみていますと、自然界の不思議を思いますが、もう一つは、この松にとってそこで育つことは本当に厳しいことです。割れ目ですので土があまり無いでしょうし、水を欲しても雨が降らないかぎりは、水は来ないでしょう。
 しかしそのような場所で松は着実に育っています。どういう風に育ったかというと、多分あらゆる自分の能力を使いきって毎日毎日生きて居るのでしょう。
 その松を見ていると、我々としてはかわいそうだと思う。大変なところに生きているから少しでも水をやってあげたいと思う。あるいは肥料を与えてあげたいと思う。しかし、それはできない。もしそうしたらおしまいだそうです。専門家に聞いたら、水をやっても肥料を与えてもいけないそうです。よく山などにいくと、岩から松が出ているのをみかけますが、それは一切自然の力だけで、あるいは松自身の力だけで大きくなっています。それと同じことが正眼寺でも起こっているのです。松にとってはもっともっと気楽なところがある。地面でしたらもっと簡単に芽が出せる。しかし松はそこを選ぶことは出来ませんでした。
 松笠がそこに落ちたのも自分の意志ではありません。松笠が開いて実が裂け目に落ちたのも自分意志ではありません。なにか大きないのちの力によってそこに置かれたのです。
置かれたら松は自分の力で全身全霊の力でいま生長しているのです。ここにしっかりみてもらわなければ事実があるのです。
 我々人間もそうですが、その場所で全身全霊で生きていけば生きられるのです。あの松の木が育っている場所は正眼寺の境内の中では条件が最悪の場所です。真夏になればもの凄く熱くなるし、真冬になれば非常に寒くなる。なのにそこで松はどんどんと大きくなっている。たまにしか降らない雨をじっと待ちながら耐えて耐えている。それで少しの雨でもってキュウーと伸びる。その繰り返しですね。
 いのちというのはどんな場所でもこのように与えられた環境で自分がもっている力の全部発揮すれば生きていけるものなのです。
 ところが、人間だれしもが自分が置かれた環境に対して不平不満をいだいているのですが、そこにあなたが築き生活をしているならば、それに耐えるだけの能力があるから、そこに居るわけです。あの松を見たらそう思います。松はなにも文句をいいません。何の不平も不満もなく順調に育っているのです。

(横山)人間というものは、なぜ自分はこの時代に人間としてうまれたのだろうかと頭の中で考えます。とくに苦しい環境にいる人はそう思います。なぜこのような環境に人間として生まれたのかと考えます。
 私は仏教のいちばんのエッセンスの言葉は縁起だと思います。縁起とは縁によって生起したという意味です。「縁起の力は甚深なり」ともいわれ、釈尊の言葉に「縁起を見る者は法、すなわち真理を見、法を見る者は縁起を見る」とあります。縁起こそが我々が自覚し悟らなければならない真理です。
 あの松の木の縁があってあそこに生じたたのです。ただ生じたことは結果であって、自分の力で未来に向けて生きていっているのですね。
 これと同じく人間の中にも未来に向けて生きる力があるのですね。
私の専門の唯識思想では阿頼耶識の中に一切の種子が潜んでいるという教理があります。すべての可能力が自分の中にあるということを知り、生きていく勇気を芽ざめさせることが必要ですね。

(老師)私が申し上げたかったことも同じです。なぜ松が育ったかというと、種子があったからです。苗を持ってきて岩の上に置いていかに養成してもたぶん育ちません。種子で落ちたから育ったのです。種子になれば人もあらゆることができます。 
 いろんな条件があって結果することを禅では「現成」といいます。私が日本人として生まれたこと、男として生まれたこと、こういう人生を歩んできたことも、すべて現成しているのです。その現成とは簡単にいいますと、我々が選べる現成ではなくて、仏の世界からそのような場所に置かれてそのように育ってくるように定められていることを現成というのです。それを我々は素直に受け入れなければならない。それを「現成受容」といいます。そうするとみんな種子になれるのです。現成を受け入れないないからこそ、みんなある程度の苗でもって生きようとする。しかし仏の世界を知って現成を受け入れた途端に種子になる。種子になれば、あらゆる能力を発揮できるのです。そこをしれば人は生き方が変わってくるのです。

このブログを読まれた方へ、
:前記のURLを開いて、直接老師の表情をまじえたお話を聞いてください。
いずれ、「岩の上の松」を見て、山川宗玄老師の法話を聞くツアーを開催しますので、ぜひご参加ください。

左は山川宗玄老師ご揮毫の空一円相の色紙です。