「唯識で読み解くダンマパダ」(4)〜すべては「因」と「縁」とか生じる〜

(第1詩句)
すべての現象は意を先とし、意を主とし、意から作られる。
  もしも邪悪な意で語り、行うならば、
彼に苦しみが従うこと、あたかも車輪が車を引くものの跡に従うがごとくである。

 今日は、「(すべての現象は)意から作られる、すなわち心から作られる」を考えてみます。
 昨日、入間にある一燈仏子寺のお盆の行事に僧侶として参加し、先祖供養のために戒名や俗名を書いた経木に散杖で洒水して浄める役目をしました。経木を供養して熱心に焼香される多くの方々の姿を見て、それぞれの方々の心の中には、亡くなった人への思い出が去来したのではないかと思いました。
 思い出も「すべての現象」の中の一部です。いな、一部というより、思い出は心の中の現象として大きな比重を占めているのです。
 私の過去を振り返ってみましょう。戦時中に大分の春日町の橋からみた大分市内が焼ける火事の様子、B29の襲来で聞いたあの不気味な飛行機の音、一番の思い出は、まだ4,5歳の時だったか、友人宅に遊びに行った帰りに飛行機の機銃掃射に会い、軒下を渡り歩きながら帰り着いて、防空壕の前で待っている母親の胸に飛び込んだこと、等々、が走馬灯のごとく思い出されます。
 そのような戦争中の思い出だけではありません。「それ以後の思い出を今思い出して見よう」と心に語りかけてみると、もう無量無数の思い出が心の中に次々を吹き出してきます。
 この心の中の現象を、すこし難しくなりますが、仏教の用語を使いながら、しばらく分析してみましょう。 
 仏教では現象はなんであれ、「因と縁とによって生じてくる」と説きます。これは、まったく科学的な眼でもって観察された事実を説いたものです。因とは根本原因、縁とは補助原因です。たとえば、植物の種子を机の上に置いても芽が出ませんが、それを地中に植えて水と適当な温度を与えると芽がでます。このたとえでいえば、種子が根本原因で「因」、水や温度が補助原因で「縁」です。すべての現象はこの二つが原因となって生じることを「因縁生起」といいます。このうち因と生とを省略して「縁起」といいます。この語は、日本では「縁起がいい、縁起がわるい」「神社の縁起」とかいう中で使われますが、本来は物であろうが心であろうが、すべての現象を貫いてはたらく根本真理を縁起というのです。ここで『ダンマパダ』の第1詩句の中の「(すべての現象は)意から作られる、すなわち心から作られる」に注目してみましょう。心から作られる、とは、心から生じる、ということですから、心の中の何が因で、何が縁となって、ある現象を生じるのか、を観察してみましょう。前に述べたように、私の心の中には、子供時代の思い出は生じましたが、お盆の法要に参加したということが「縁」でした。では「因」とは何か。それは過去の記憶です。では「その記憶はどのような状態でどこに潜伏していたのか」と問うことができます。この問いに対して<唯識>は 「深層心である阿頼耶識に種子として潜伏していた」と答えます。植物の種子が大地の土壌に潜伏しているように、過去の出来事が阿頼耶識といういわば“土壌”に記憶の種子として潜伏していたものが、縁を得て芽を吹いた、すなわち思い出として心の中に生じたのです。 このブログを読まれた方の中で、初めて「阿頼耶識」という言葉を聞かれた方がおられたら、私が著わした『阿頼耶識の発見』(幻冬舎刊)を読んで下さい。

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)

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 この本の「はじめに」の冒頭に、「インドにおいてゼロに匹敵する大発見が阿頼耶識なのです」と書いておきましたが、阿頼耶識の発見は本当に大発見なのです。
 結論を急ぐことは問題ですが、とにかく、心を変革することによって、換言すれば、一人一宇宙の深層にある阿頼耶識を変革することによって、自分も世界の大きく変わってきます。
 ではどうすれば阿頼耶識を変革することができるか、その実践方法は、以下逐次説明していきたいと思っています。
 思い出には、「悪い暗い思い出」と「良い明るい思い出」とがありますが、できれば、悪い思い出は忘れて良い思い出だけを思い出せればよいですね。とはいっても、悪い暗い思い出に翻弄されて苦しむ人が多くいます。このような人は、どのような生き方をしたらいいのでしょうか。
 その生き方を『ダンマパダ』の中に探ってみようと思います。
では、今日はこのぐらいで。