「生命」から「いのち」へ

私も気がついてみたら、もう72歳になろうとしていますが、最近は、いま・ここに、このように生きている自分をもたらした動因はなにかと考えることがしばしばあります。今日は、過去の自分を振り返ってみたいと思います。
 私は最初は医者になろうと思って、医学部コースを歩みはじめました。しかし、結局は医者になる道を進まず、農学部水産学科で魚の血の研究に取り組みました。へモグロビンの中のハプトグロビンというもの、それは、人間が癌になると増えるということで、それが魚にもあるかどうか、その組成はどうなっているか、というのが私に与えられたテーマでした。そこで大学院まで進んで、その研究を続けました。
 そうしているうちに、それまでやってきた研究に疑問を持つようになりました。それは、ハプトグロビンとか、遺伝子とかまでに還元され、対象化され、分析された生命についての研究に疑問を持つようになったのです。
 当時坐禅を始め、生(なま)の生命というものに触れ始めて、私はこの私自身の「いのち」を観察対象として、それは一体何なのかを追求していきたいと思い始めたのです。それは漢字で書く「生命」ではなく、平仮名で書く「いのち」なのです。
  また、科学者というものは、えてして「知」のための「知」を追い求めていることにも疑問を持ち始めたのです。「知る」ことのみを目的として「知る」、そういった「知」が、むしろ世の中を悪くしていくのではないかと思ったのです。たとえば、核分裂についての知識が、結局は核兵器という恐ろしい武器の製造につながっていったのです。同じように自然科学の他の分野でも、人間の欲望が絡んでくると、知識の発見はとんでもない危険性と背中合わせになってくるのです。
 坐禅を始めて自分の「いのち」に触れて、そしていま述べた疑問がますます深まっていった結果、自然科学から仏教に転向したわけですが、仏教では、縁あって、唯識思想を研究することになりました。<唯識>というのは、もともとは、禅の原型であるヨーガ(瑜伽)を実践する唯識瑜伽行派とよばれる学派がもとになっている思想ですが、その思想を研究して、同時に禅の修行に励むことを通して、私なりの「いのち」観というものを持つようになりました。
 私が「いのち」を語る意味は、「いのち」というのは、生かされてある「いのち」なのに、私たちは「生きてるぞ」「生きてるぞ」と言う。そこには「私」という主語があります。しかし、事実は、「私は生きてるぞ、私は生きてるぞ」ではなく、私たちの「いのち」は、「生かされている」のです。
 この生かされている、ということに加えて、この「いのち」は不思議なものであるということを、私は仏教の教えを通して、特に<唯識>を通して知るようになりました。そして、自分の「いのち」の真相を知ろう、「自分が生きている」のではない、「自分は生かされている」のだと、深く認識しようと努力を始めました。
 ここで「生かされている」という事実をまずは知的に理解してみましょう。
 この私という「いのち」が、いま・ここに存在する縁を考えてみます。一番最初の縁は38億年前の地球上に生じた生命の一滴です。その生命がとうとうと流れて、私を生んだ父の精子と母の卵子にたどりついて、それら二つの結合によって私が生まれました。そして生まれてから環境や教育などのさまざまな縁によって形成さた“私”が、いま・ここに生きているのです。
 つぎに時間をとめて、私の存在を支えているものを考えてみると、私がいまここに存在しうるのは、この家があり、大地があり、地球があり、太陽があり、数多くの星雲があり、ないし、光に近い速度で遠ざかっている宇宙の果てがあるからです。
 つぎに私とい宇宙に眼を向けてみます。本当に一人一宇宙(これについては他日論じてみます)であって、私のこの身体は一糸乱れることのない宇宙です。この宇宙には心臓や肝臓や様々な臓器があり、ないし、60兆の細胞があって、私というものが存在するのです。
 このようにみてくると、“私”という存在は、時間的にも空間的にも、もう数えきれないほどの無量無数の「縁」の力でいま・ここに存在することに気づきます。
 縁とは、自分以外に「他の力」です。だから縁によって存在するとは、すべての存在が「他」であって、どこを探しても自分、すなわち「自」は存在しないことになります。
 だから「自分が生きている」のではなく「“自分”は生かされている」と言うべきです。そして今言ったなかの“自分”とは、言葉の響きがあるだけなのです。(これについても他日論じてみます)
  仏教には
   「縁起の故に無我である」
 という根本教理があります。縁によって生起しているから無我、すなわち“自分”は存在しない、という主張ですが、これは決して信仰の対象ではなく、事実を言っています。
 私たちは、この事実に気づかず、「自分が生きてるぞ」とそこに「自分」を設定し、ものを見ても、判断して、そこに「自分」がでてきます。そして自分中心の生き方を展開し、他人と対立した世界を現出させて、自分も、そして他者をも苦しめる生き方をしているのです。
 そうではなくて、「他」によって生かされている、という事実に気づくことが、生きるうえでの肝要事です。

 私が「生命」から「いのち」へと関心を移してから、すで半世紀がすぎました。私は残された人生でやらなければならないと思っているのは、「自分」という意識をできるだけなくして、人のために生きていくことです。そしてそのための勇気と情熱とを養っていくことです。
 まだまだ自分、自分と言い、思い続ける「自分」を恥じて、今日の文を書きました。

iPS細胞が山中伸弥教授のノーベル賞受賞で、いま脚光をあびています。もちろんiPS細胞の研究は再生医療の分野では大きな貢献を果たし、多くの生命を救うことになるでしょう。
 でもそれとは別に、いな、その前に、私たち一人ひとりが、己の「いのち」の何たるかを自分から智ることが大切ではないでしょうか。
 なぜなら、生かされている「いのち」に気づく人が増えればふえるほど、他者を思い慈しむ社会が拡大していくからです。