「唯識で読み解くダンマパダ」(21)〜理論と実践〜

 前回のブログで、「理論」と「実践」の二つの関係を問題としましたが、第19詩句の「たとえ、経文を数多くそらんじても、それを実行しないならば、その人は怠けている。」という一文は、「いかに理論を学んでも実践しなければ怠けていることになる」と言い換えることができるでしょう。
 今回は、その理論と実践の関係を考えてみます。
 まず、私の過去の思い出を話してみます。
 大学に入ってすぐに坐禅の修行に飛び込み、北鎌倉の円覚寺の居士林に通って熱心に坐りました。初めて坐った夜、警策を持って坐禅者の前を歩く僧が、私たちに語りかけた次の言葉が今でも心に残っています。
 「坐禅はただぼうっと坐っていてはだめだ。地球の裏のブラジルで線香の灰がボトリと落ちたらビクッとするぐらいの気構えで坐るののだ」
 と私たちを叱咤してくださったのです。坐禅するとは、もう宇宙大になることなのか、と思いました。
 これに加えてもう一つ忘れられない思い出があります。坐りはじめて半年ぐらいだったでしょうか、当時の円覚寺の管長・朝比奈宗源老師との照見が許されました。はじめての照見のとき、私が思いきって尋ねました。
 「大学に入っても授業がつまらない。高校時代に学んできたのと同じだ。だから大学をやめて、社会に出て、汗を流して一生懸命は働き、帰宅して風呂に入って、ああ気持ちがいい、という快感を味わう生活をしたい。大学をやめてよいでしょうか。」
とこのような内容の質問をしました。 
 すると老師は、一言、「理論と実践とは天秤棒に吊された二つのようなものであるのだ。」とおっしゃいました。
 その一言が時折、私の心の中に響きわたります。理論と実践との両方が必要なのだとはっきりと教わったありがたい経験でした。
 理論と実践との両方が必要なことを言いた言葉に「知行合一」があります。
 西郷隆盛との会見で、江戸城無血明け渡しに成功したあの勝海舟の、
「行わないのだから、知らないのも同じだ。何事でも知行合一でなければならない。」(『氷川清話』)という語りのなかに「知行合一」という言葉が認められます。
 中国の王陽明が創唱した陽明学でも知行合一を唱え、実践の大切を強調しています。実践してはじめて理論が完成するというのです。
 詳しい論述は省略しますが、あのギリシアの哲学者・ソクラテス知行合一の立場をとっています。
 知行合一を仏教的に表現すれば「解行一如」といいます。解が理論、行が実践です。
 私がいま副学長をしている岐阜の正眼短期大学http://www.shogen.ac.jp/)の建学の精神は、「行学一体」といいます。
 この大学を創立された梶浦逸外老師は、
「広く専門分野の学術を極めながらも知に流されず、学に溺れず、ひたすら高い知性、強い精神力、不言実行の実践力を身につけるという行学一体の人間教育がなされなくてはならぬ。」
と言われています。

「いかに理論を学んでも実践しなければ怠けていることになるぞ」と説き示した釈尊の言葉をもう一度記して、そして知行合一、解行一如、行学一体と呼びかけて、今日のブログを終わります。

「たとえ、経文を数多くそらんじても、それを実行しないならば、その人は怠けている。」

氷川清話 (講談社学術文庫)

氷川清話 (講談社学術文庫)