私の自分史

久しぶりにブログを書きます。縁あって「私の自分史」を書いてみましたので、それを紹介してみます。お読みいただいて何かコメントをいただければ幸甚です。

          私の自分史
〜これまで歩んできた逆転の人生〜
   私も気が付いてみたらもう七十三歳になりましたが、ここらで、これまで歩んできた人生を振り返って「自分史」を書いてみようと思い立って、以下のような文を綴りました。お読みいただき、生きるとはなにか、いかに生きていくのか、という人生の大切な問いを考える際の参考していただければと願っています。
(1)私の人生における逆転の出来事
1.「自然科学の道」から「自己探求の道」への転向
私は、最初は医者になろうと思って医学部コースを歩んだが、結局は医者になることを諦めて農学部の水産学科の大学院で魚の血の研究をした。それは、人間が癌になると増えるという血液中のハプトグロビン(ヘモグロビンの一種)が魚の中にもあるかどうかの研究であった。学部時代からその研究に従事し、その結果、調べた二十種類のすべての魚の血液の中にハプトグロビンがあることが判明した。その研究成果を指導教授が学会で発表した後、大学の前の居酒屋で教授とお酒を酌み交わして乾杯したことが、今なつかしく思い出される。
 しかし、研究が進むにつれて、私はその研究に疑問を持つようになった。つまり、ハプトグロビンとか、あるいは遺伝子とかいったものにまで還元され、対象化された「生命」を研究対象にすることだけでいいのかという疑問である。
 そのような対象化された生命は、いわば鏡の中の像であって、私は鏡の本体そのものを、つまり、「研究しているこの私とはなにか」「私の心とはなにか」「私をふくめた存在全体はいったいなにか」を人間として生まれた以上、一生、探求してゆきたいという想いがつのってきた。
 そして、ある日、日記を書いているいるときに、「よし、明日、決行だ」と書いた途端に決意が固まった。私の心の底にある想いがヤカンの中で沸騰しているお湯が突然吹き出てくるように、表層の心に吹き出してきたのである。そして、翌日教授に水産学科を辞めることを申し出たのである。
 新たな道を歩むにあたって、当時所有していた水産関係の書すべてを神田の古本で売って、その代金で西有穆山著『正法眼蔵啓迪』を購入したことをなつかしく思いだす。
 私は当時、自己の弱さを克服し、同時に「いったいなにか」という疑問を解決するために坐禅の道に飛び込んでいった。「よし、出家して僧となり、専門道場で激しく修行して真理を悟ろう」という思いで、鎌倉の円覚寺の居士林に熱心に通った。
 
(禅に飛び込むきっかけは、私の子供時代の出来事に由来する。私は小学二年生から五年生まで大分に住んでいたが、家が万寿寺という禅宗の専門道場と接していた。その寺は私の遊び場であったし、時には住み家ともなった。幼いということもあって、雲水僧たちに可愛がられ、よくかれらともに、あの湿っぽい一枚蒲団にくるまって眠ったものだった。お坊さんたちと堂内で卓球もした。境内でテニスもした。時には別府湾の海水浴場に連れて行ってもらったし、暮れには私の家の餅つきまでも手伝ってくれた。
   だがそれらは子供ごころに映った専門道場の一面であった。時折、垣間見た雲水僧たちの静かで威厳にみちた坐相が、いまでも金色に輝く仏像のごとくに私の脳裏に浮かんでくる。だがそれ以上に私の心に焼きついて離れない経験がある。当時、万寿寺には臨済宗の傑僧足利紫山老師が隠居されておられた。すでに九十歳をすぎた老師は一線を退かれ、悠々自適の毎日を送っておられた。すれちがう町内の一人一人に、わざわざ立ち止まり、にこやかほほえまれる老師のお姿が印象的であった。
   忘れられない経験とは、その老師のお弟子で当時その寺の住職をされておられた大西和尚から次のような教えを受けたことである。
あるとき私は和尚に「なぜお坊さんたちはあのように静かに坐っているの」と尋ねた。すると和尚は直接その質問には答えず、「人間は静かに一生懸命に坐れば、木にも石にもなることができる。今度、わしが部屋で坐っているときに襖を開けてみるがいい。部屋いっぱいに大きな木がはえているぞ」と静かに語られた。
   人間が木や石になる、そんな馬鹿なことが、と子供ごころに思った。でももしかするとお本当かもしれないとも思い直してもみた。いずれにせよ、その和尚の一声で、坐禅というものが、なにか神秘的で素晴らしいものとして私の心の中に深くとどめられたのである。この和尚の一声が後に坐禅に飛び込む力となったと言えるであろう。)
 しかし、私の発心が弱かったのであろうか、出家することなく、その後結婚し、そしてさまざまな縁(縁については後述する)によって、現在のこのような私として生きているのである。

2.「公務員の生活」から「大学での研究と教育の生活」への転向
 私の人生におけるもう一つの転向を紹介してみよう。
水産を辞めた後、出家を諦め、仏教が学べる文学部のインド哲学科に三年から編入した。
仏教だけではなくインド哲学に興味を持つようになった縁は、水産時代に大学の図書館で、たまたま書棚から手にした、インドの哲人・ヴィヴェーカーナーンダの『インド哲学入門』という本のなかで「自分を含めたすべての存在は宇宙の根源であるブラフマンから流れ出たものであり、ブラフマンと自分とは一体である」と書かれているのを読んで、当時自分の問題で悩んでいた私は、この一元論によって救われたのである。私をしてその一冊の本と出会うに至らしめた力とは一体何であったのか。
その後、インド哲学科で私は主に<唯識>を研究し始めたのであるが、その縁もまた不思議なものであった。転部してから三ヶ月後ごろに、当時インド哲学科の助手をされていた方から、山口益博士の『中邊分別論』に関する三部作を頂いた。それは高価なもので、なぜ私にそれを下さったのか分からないが、その本を通して、私は初めて仏教に唯識思想というものがあることを知ったのである。<唯識>に興味をもち、今までその研究に従事するに至った最初の縁も、また不可思議な出来事であった。
インド哲学科には三年編入で入学し、学部卒業後、修士課程から博士課程に進み、博士課程の途中で退学してインド哲学科の助手となった。二年ほど助手を務めたあと、文部省の宗務課の専門職になるようにと当時の私の指導教授から命じられ、内心気が進まなかったが、助手を辞して、虎ノ門にある勤務先まで通う生活となった。現在の宗務課の専門職はそうではないであろうが、当時の専門職は、とくにたいした仕事はなく、課長から、勉強をしていてもいいですよ、と言われるぐらいに、用事の少ない職柄であった。
私には、まったく馴染まない職場であることが判明するにつれて、「私がここにいる理由はまったくない」という思いがだんだんとつのって、三ヶ月ごろから辞めようと思うようになり、六ヶ月後に決意して辞職した。
それで、まったくの無職になったわけであるが、生活は、当時武術(鹿島神流)に熱心に励んでいたこともあり、体を鍛えるためにもと思って、結婚式場の皿洗いのアルバイトを始めた。私は当初からどこかの大学の教職に就こうという思いはまったくなく、とにかく「修行して少しでも真理に近づき、自分と他人とが幸せになるような生き方をしたい」と願っていたのである。
それが立教大学で教職を得るに至った縁は、立教大学で東洋系の思想を教える教師をさがしている立教大学の先生が、たまたま宗務課を訪れ、もう一人の専門職の方に、どなたかいい人がいないかと尋ねたところ、先ほどここを辞めていった者がいる、と語ったとのことである。
それがきっかけで私は立教大学に奉職するようになったのである。
まさに「さまざまの縁」に生かされて、立教大学に教職にたどりついたのであるが、それらの縁に出会うことになった根本的な縁は、私が二度にわたって、その時の自分の「生き方」を放棄したことである。今から考えるならば、
「放棄する、捨てる、放下する、ことによって、<新たな生き方>が開けた」
と言えるであろう。さなぎが脱皮してチョウとなって飛び立つように、私もその時に着ていた皮を脱ぎ捨てて、新たな生き方の世界に飛躍したのである。
いま「新たな生き方」と言ったが、その「新たな」とは表層的な生き方にだけかかる形容句であるが、私の深層心の中には、決して変わることのない「信念」とでも言うべき想いが常にあったのである。その「想い」とは、前述した、
 「修行して少しでも真理に近づき、自分と他人とが幸せになるような生き方をしたい」
という想いであった。
 いま「想い」と言ったが、信念を理念、理想と言い換えることができる。私は常々、現実に負けることなく「理を念じ、理を想う」生き方をしようと自分に言い聞かせてきた。したがって「現実はこれこれだから仕方がない」と諦める人を私は否定的な眼でみてきた。そして、そのような人が現実に負けない勇気と情熱とを持ってほしいと願った。

(2)ドイツ生活での新しい自分発見
 立教大学に就職してから四年目の四十歳のとき、ドイツのフンボルト財団からの招聘奨学研究者として、一年と二ヶ月、ドイツに留学した。研究内容は仏教研究者として著名なハンブルグ大学のシュミット・ハウゼン教授のもとで、大学院生と共に『大乗荘厳経論』「菩提品」をチベット訳を参照にしながら読んでいくことであった。
ドイツ語でやりとりすることには、かなり苦労したが、どうにか無事終えることができた。研究の合間に、妻とヨーロッパ各地を巡ったことは、楽しい思い出となった。
 ドイツ滞在中の一番の経験は、外国という環境の中での生活で、それまで気づかなかった「新しい自分」を発見したことである。それは、滞在中によくドイツ人から「あなたはgelassenな人間ですね」と言われたことから、外国にいても異国の環境にあまり動揺せず、いつも「落ちついている(gelassen)」ことができる「新しい自分」を発見したのである。
 環境を変えることによって、それまで気づかなかった自分深層から顕われたのであろうか。
 よく、外国に行けば自分の国のことが分かる、と言われるが、私の経験から、外国に住めば深い自分のありようまでもが分かるのである。
広くいえば、何かに行き詰まったときは、思い切って環境を変えてみてはどうか。そこで新しい自分が新しい道を歩み始めることができるかもしれないからである。
(3)『唯識 仏教辞典』の執筆と出版
  立教大学で二十九年間、研究と教育の生活を続けたが、研究での最大の成果は『唯識 仏教辞典』(奈良・興福寺創建千三百年記念出版、平成二十二年十月、春秋社刊)を完成したことである。これについてしばらく述べてみたい。
 私の唯識思想研究の原動力は玄奘三蔵のご恩に報いたいという報恩の気持ちである。玄奘三蔵という名を唱えるたびに、私の心の中に、「なんと素晴らしい生き方をされた方か」という感嘆と、「ありがとうございます」という感謝の念とが生じてくる。もしも、あの玄奘三蔵の十七年にもわたる艱難辛苦の求法の旅と、帰国後の十九年にもおよぶ漢訳作業がなければ、今の日本仏教はなかったといっても過言ではない。
その報恩行の最初として、玄奘三蔵がそのサンスクリット原典を求めて国禁を犯してまでもインドへ渡り、十七年掛けて中国に持ち帰った論書である『瑜伽師地論』の研究に着手した。そして、<唯識>の源泉ともいえる『瑜伽師地論』を世に宣揚すべく、『瑜伽師地論』の漢梵蔵対照の索引を作ることを思い立った。
そこで、まず、漢訳本と梵本と蔵本との三本を照合しつつ、厳密な三語対照のカード作りを開始した。途中から友人の廣澤隆之氏の協力を得て、約、十年かかって、十万枚近いカードをとり終えた。
 それから、整理したカードをコンピューターに打ち込む作業を始め、その作業にも七年の歳月を費やした。
 その後、いろいろの方々のご協力と御支援とを賜って、平成八年八月に『漢梵蔵対照・瑜伽師地論総索引』(横山・廣澤共著。山喜房仏書林刊)を出版することができた。しかし、私の思いはこれで終らなかったのである。
私の報恩の思いはさらに増幅して、次に、<唯識>を学ぶための辞典を作ろうと決意した。
当初は研究者と僧侶の方々をも交えての共同執筆を計画したが、辞典は一人が執筆した方がまとまりがあるという思いから方針を転換して、私一人で執筆を続けた。
抽出して整理した一万五千余りの項目を一人で執筆することは大変な作業であった。「し」ではじまる項目は全部で三千ほどあったが、それらを書き上げたときの喜びが、いま懐かしく思い出される。
とにかく、長きにわたってコツコツと書き続け、『唯識 仏教辞典』という大部な辞典を完成させたことは、<唯識>研究者としての私の心を深層から変革せしめ、以後の私の生き方を大きく変える力となった。
(4)多くの人々の協力
本辞典の出版には多くの方々からのご協力・御支援を賜わった。辞典の刊行の資金勧募のために、「性相学辞典刊行支援修行会」(『唯識 仏教辞典』は最初は『性相学辞典』と呼んだ)という名のもと、毎回三十名ほどの方々が参加されて、平成四年六月から平成九年六月までの五年間に亘って、東京・札幌・金沢・名古屋・奈良・松江・高松・博多などの各地で、合計十回の托鉢行脚を行なったことは、懐かしく、有り難い思い出となった。
この「修行会」を結成し、托鉢のご指導をいただき、また各地での宿泊場所や托鉢コースの設定などに労苦いただいたのは、私の大学時代の同級生である妻沼・聖天山住職の鈴木英全氏であった。鈴木英全氏、そして博多から札幌という日本全国にわたって苦労を厭わず参加していただいた托鉢同志の方々の有り難い力が、私をして『唯識 仏教辞典』を書き続けさせたと、今でも皆様に感謝の気持ちでいっぱいである。
この托鉢修行という縁に加えて、もう一つ、私の辞典執筆への情熱が強まった縁は、私が平成十年に剃髪出家させていただいた法相宗大本山である奈良・興福寺から、興福寺建立千三百年記念の事業としてこの辞典を刊行することになったことである。そして平成二十二年十月の中金堂再建の立柱式で本辞典を興福寺から参列者に寄贈して頂いたことは、私にとってこの上もない光栄なことであった。
 とにかく、書き続け、執筆し続けたのは「私」であるが、以上に述べた多くの人びとの有り難い協力がなかったら、この辞典は完成しなかったであろう。
(5)私がこれから歩もうとする人生
私は、現在正眼短期大学の副学長をつとめ、また立教大学セカンドステー
ジ大学にて教えています。
 講演の依頼も多数あり、仏教関係者だけでなく、次第に経営者向けが増え
ております。
 著書は今春新刊(博士論文として提出予定の出版)が出る予定であり、これまでの著書の三冊は翻訳されて韓国で出版され、次に英訳版が米国の出版社から間もなく出版される予定です。
 私のお伝えしたいことが、一般の方々へ、そして海外に広がることは、と
ても嬉しいことです。
世の中の現状を見ますと、一方では、近代(機械文明)の行き詰まりが露わになって来ており、他方では、戦争が近づいているような様子さえ伺えます(私は「戦争はいやだ!!」という共著を出しています)。人々は時代の窮屈さを超える考え・方法を求めているように感じます。
そこで、私は一体何で皆様(日本だけでなく世界中の)に恩返しが出来るかを考えた結果、私が教鞭をとっております正眼短期大学及び立教大学セカンドステージ大学の建学精神・設立の趣旨(下記注記参照)と、また私が責任役員を務めています一燈仏子寺所属の一燈佛学院設立の趣旨(下記注記参照)とにしたがい、実社会での社会貢献活動の舞台を作ることを決めました。
そして、医師などの専門家とともに特定非営利活動法人DAIJOBU、一般財団法人DAIJOBUを設立し、昨年末に準備が整いました。
 社会貢献活動が拡大・継続するためには採算が取れ生命のように循環・成長することが大切です。
世間への恩返しとして普及する社会貢献活動を行いたいとの企画をお持ちの方は、是非私に企画書を送ってください。関係者の知恵を集め、地に足が付いた企画にブラッシュアップし、平和でゆたかで、皆様の心身が溌剌とした世の中に向け皆様と御一緒に少しでも進みたいと考えております。
    
【注記】
正眼短期大学岐阜県美濃加茂市にある日本唯一の禅の短大)の建学精神
 「行学一体、知とこころとからだの調和」
 創立者である梶浦逸外老師は「国際社会に裨益(ひえき:役に立つこと)す
る優秀な人材を育成すべく行学一体の禅的教育による人づくりをめざし、名実ともに奉仕的精神をもって不言実行する人材を送りだす教育機関であることです。」と語られた。
立教大学セカンドステージ大学設立の趣旨・目的
50歳以上のシニアのために、人文学的教養の修得を基礎とし、「学び直し」
と「再チャレンジ」のサポートを目的とした新たな学びの場です。(略)
シニアの人たちが集い、人と人のネットワーク、地域や社会とのネットワークを形成し、仕事や多様な社会参加の担い手として、セカンドステージに踏み出すための新しいキャンパスの創造と位置付けています。
一燈佛学院設立の趣旨
 一燈仏子寺は、当寺を、行学一体の精神に基づいて、禅浄双修の修行の場として、加えて諸宗兼学の学びの場として開放し、日本、中国、韓国、台湾、東南アジア、インドにまでまたがる雄大な巡礼構想をも視野に入れ、広く国内外の求道者と共々仏道を歩むことを目指して、このたび一燈仏子寺に所属する一燈佛学院を設立しました。
 
付記
 以上、自分史を書き綴ってきたが、書き漏らしたことを以下記してみよう。
(6)昭和の武蔵・国井善弥先生のもとでの武道修行
 私は、小学生の頃から相撲が好きで、また強かった。近くの神社(下関市長府にある)で毎年行われる田舎相撲大会の子供の部でよく優勝し、幟をもらったり、ときには投げ入れられたお金をもらって帰り母親を驚かせたりした。昔の素朴な町の行事を今なつかしく思い出す。
 中学に進んで課外活動として柔道部に入り、三年には主将となった。その年、下関で三回の大会が開かれたが、いずれも個人の部で優勝し、最後の大会で、東京の講道館から来て人から、「今度の大会で天才少年が現れた」と言われて表彰状を渡されたが、優勝した私のことを評したと思い、家に帰ってそのことを母親に言ったら、母親から、顔をなぐられ、こっぴどく叱れた。
 今から考えれば、それは私の増上慢をへし折ってくれた有り難い叱責だった。
「自分はすごいんだ」と思う慢心ほど、その後の成長をさまたげるものはないからである。
 運動好きの私は、大学に入ってからは弓道部に所属した。しかし相撲や柔道のように激しく動くスポーツが好きな私には、的に向かい、静かに動作する弓道は、私の性分に合わず、また技もなかなか上達しないこともあって、教養部の途中で辞めてしまった。
 専門の水産学科に進んだある日、実験中の教室のなかに、「だれか武術を習うものはいないか」と叫んで、一人の先輩が入ってきた。柔道以外になにかをやりたいと思っていた私は、すぐには「やります」と答えて、その日の夕方に武術を教える道場に連れて行ってもらった。私の外にもう一人、一緒に行った。 
 滝野川にある道場に入ると、神棚がある奥の部屋に丁度、見るからに武芸者らしき、少し強そうな大男が四人座って話していた。大変なところに来たと思いながら、先輩に紹介してもらうと、その中の一人が、おもむろに立ち上がって練習部屋に降りてこられた。その方が昭和の武蔵と称せられる国井善弥先生だった。先生は早速、親切にも、新入りの私たちに鹿島神流(私が習ってきた流派の名称)の足の踏み方を教えてくださった。ここでは詳しい説明は省略するが、一直線上に二本の足を「ソ」の字の形に踏んで立つ構えであった。その構えの素晴らしさを実際に突きと受けの動作で教えていただいたが、それまでは柔道の構えしか知らなかった私には、「何と素晴らしい足の構えか」と電撃的なショックを受けた。そして「よし飛び込むぞ」と即座に決意した。
 それから先生が亡くなられるまでの十年間、週に数回、道場に通って先生や先輩の方々の指導を受けた。当時、日本一の荒道場と称せら、練習は厳しいものだった。でも先生も技も素晴らしい鹿島神流を習うことの有り難さに感謝しつつ修練を続けた。
 鹿島神流は、剣術のみではなく、槍術、薙刀術、棒術、抜刀術、そして柔術をも含んだ綜合武道である。しかも構えが剣道のような青眼の構えではなく、「音無の構え」あるいは「無構え」と言われる独特の構えである。実際に演技しながらでは分かってもらえないが、本当に「無」の構えであるからこそ、自由自在に発進しそして還元できる剣の動き、体の動きとなりうるのである。
 長くこの構えの武術に馴染んできたためか、生き方の上でも、他者に対してあまり構えることなく付き合いことができるようになっている自分に気づき、鹿島神流を学んできた諸縁に感謝する昨今である。
 国井先生の人柄を紹介してみたい。練習は厳しく激しいものであったが、練習が終わったあとの先生は、それは優しく、思いやりのあるお方であった。たとえば、一緒に一匹の魚を食べるとき、頭の方を私に向けて「食べろよ」といわれたことが今でも鮮やかに思い出される。
 お酒は一滴も飲まれなかったが、毎年の新年会では、率先して酔ったような振りをされて座を盛り立ててくださった。
 一つ、素晴らしい教えを頂いた思い出を紹介してみたい。
 入門してから四、五年の頃だったか、、私と一緒に入った同僚二人だけを教えてくださっていた柔術の練習で、相手が突いてくる腕を取る、その取り方を、先生は「それでは駄目だ」と何度も私たちを叱った。私たちがうまくいかなかったので、先生は「お前たち二人はもう破門だ」と怒鳴られて二階に上がっていかれて長く降りてこられなかった。同僚は、もう帰ろうか、と言ったが、私は、待とうと、正座して待ち続けた。小一時間した頃だったか、先生は二階から降りてこられて、「よし、もう一回やってみろ」といわれ、練習を再開した。そして、相手が突いてくる腕を私が受けた瞬間に、先生は「よし、それでいいのだ」と言われたのである。私は、相手の腕を両手でぐっと掴むことなく、両手の平で上下に挟んで受けたのであった。(なぜそれがよいのかの説明は省略する)
 後で考えたことであるが、先生は、方便として「もう破門だ」と言って私たちを励ましてくださったのである。今でも忘れられない有り難い教えであった。