「唯識で読み解くダンマパダ」(23)〜賢人たちの喜びと楽しみ〜

今回は第22詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。

(第22詩句)
このように相違を知って、励むことを能く知る賢人たちは、
励むことを喜び、聖者たちの境界を楽しむ。

この詩句の最初の「このように相違を知って」とは、前の詩句の「励みは不死の境地であり、怠けは死の境地である。励む人々は死ぬことがなく、怠ける人々は死者のごとくである。」という「励むこと」と「怠けること」との違いを知ることです。
 私たちは、日頃から「怠けてはいけない、励み努力しなければいけない」と思っていますが、つい怠ける方に傾いてしまいます。
 でもそういうとき、「怠けた生き方は、生きていながらすでに死んでいるようなものだ」という釈尊の言葉を聞くと、「よし、励み努力しよう!」という思いが深層から心の中に生じてきます。
 しかし、励みが不死の境地に至る道であるということを私たちはまだはっきりと知っていません。なぜなら私たちは、不死の境地がどのようなものかを悟っていないからです。
 でも、この詩句での主人公である「励むことを能く知る賢人たち」はその境地を悟っている人々です。  このなかの「能く知る賢人」の原語は「パンディタ」で、智人、智者、智慧者などと訳されます。励むことが、どのような結果をもたらすかを明白に悟った智慧ある人が「パンディタ」です。 
 明白に悟っているから、「励むことを喜び、聖者たちの境界を楽しむ。」ことになると説かれています。「喜怒哀楽の人生」といわれるように、「喜び」と「楽しみ」とは、生きる上で、心を和ませる二つの大きな感情です。 
 でも私たちの喜びは悲しみに、楽しみは苦しみに変わることがある、生滅し変化しやすいものです。
 でも「励むことを能く知る賢人たち」の喜びと楽しみは、まったくそれとは質的に相違する喜楽なの です。「不死の境地に至ることを目指して励むこと」が賢人たちの喜びなのです。
 では楽しみとはなにか。それが、「聖者(しょうじゃ)たちの境界を楽しむ」と説かれています。
 聖者の定義を記するを以下のごとくです。 

 聖者とは、真理を悟った者。真理を悟り、汚れのない智慧(無漏智)を起した人。見道において四諦 を見究めた以後の人。無漏智をいまだ起していない異生の対。

 このような難しい定義はとにかくとして、簡潔には「聖者とは真理を悟った人」ということができるでしょう。
 ここの文脈でいえば、「人間は死ぬことがないという真理」を悟った人といえます。つぎに「境界」ですが、これについて以前のブログで述べたことを再記します。

 この境界の原語は「ゴーチャラ」でgocaraと綴ります。牛(go)が動きまわる(cara)というのが原意です。牛は牧場の中であちらこちらを歩き回りますが、それから転じて、私たちの認識が行きわたる範囲を意味し、gocaraは所行、所行境、境界などと漢訳されます。上記の詩句では最後の「境界」(きょうがい)をとって「境界に住する」と訳しました。境界は「心境」、すなわち「心の状態」と言い換えることができるでしょう。 

 賢人たちの「楽しみ」は、「人間は死ぬことがない」という真理を悟った心境に住していることであるといえるでしょう。私たちとはまったくほど遠い楽しみですね。

 私たちは、たしかに肉体が衰えて死んでいきます。それは悲しいことです。でも第21、22詩句から、私たちは、努力次第で、「不死」に至ることができるのだ、という希望をもって生きていこうではないかと呼びかけて、今回のブログを終わります。