「唯識で読み解くダンマパダ」(22)〜死ぬことがないのだ〜

今回は第21詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。

(第21詩句)
励みは不死の境地であり、怠けは死の境地である。
励む人々は死ぬことがなく、怠ける人々は死者のごとくである。

まず、「励み(はげみ)」と「怠け(なまけ)」について。
 人間のタイプは、「勤勉な者」と「怠け者」とに、すなわち「はげむ人」と「なまける人」との二つにわかれます。この両者と私たちが生きる中で最後に迎える「死」との関係を述べたのが、この詩句です。
 人にだれしも「励む心」と「怠ける心」との両方がありますが、この詩句は、前者の心の素晴らしいと後者の心の恐ろしさを強調しています。 すなわち「励む心」で生きる人は死ぬことのない不死の境地に住しているというのです。これは素晴らしいことです。
 これに対して、「怠ける心」で生きる人は、生きてはいてもすでに死んでいるのと同様であるというのです。まことに厳しい言葉ですね。
 厳しいが、この詩句は私たちに勇気を与えてくれます。なぜなら、私たちのこの肉体は、衰え、滅びて死を迎えますが、しかし、私たちは、励むことによって生きていながら「不死の境地」に至ることができると説かれているからです。
 境地と訳した原語は「パダ」(pada)です。これには「歩く」「道」という意味がありますが、また「場所」「住所」という意味もあることから、励むことによって死ぬことがないという悟りの境地に住することができるのであると解釈してpadaを境地と訳しました。
 この「不死の境地」は、第114詩句にも説かれています。
「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きるほうがすぐれている。」
この詩句では「不死の境地を見る」と「見る」(パシュ)という表現になっていますが、この「見る」とは、どういうことでしょうか。
 私は、第21詩句を参考にしながら、「見る」を、「励み、努力し、精進しつづけることによって、死ぬことがないのだという確信を得る」と解釈したい。
 もちろん、「見る」の最高のありようは、無上正覚という悟りです。
 私は、インド哲学科に転じて数年後でしたでしょうか、釈尊菩提樹下で悟りを開かれたとき、 「生じることも、老いることも、死ぬこともない世界に触れた」
という言葉を発せられたということを知って、よし、自分もそのような心境になるぞ、と禅の修行に一層精進したことがなつかしく思い出されます。
 釈尊の悟りには到底及ばないにしても、私たちは「確信する」という段階をめざして、励み、努力し、精進したいものです。(確信するとはどういうことか、いずれ他の機会に書いてみたいと思います)
 つぎに、「不死」について考えてみます。不死の原語は「アムリタ」ですが、不死のほかに「甘露」とも訳されます。
 甘露とは中国の伝説で国王が善政を施すと天が降らすという甘味の液をいい、それを飲むと不死に至るという言い伝えによって、不死を意味するサンスクリット「アムリタ」 を甘露と訳したのです。一般に、甘露飴、甘露煮、甘露水などと用いられる甘露です。
 仏教では、不死に至る釈尊の教えを甘露の法といいます。この第21詩句もまさに甘露の法です。

最後に、
「いずれ死ぬ。でも死ぬことがない世界があるのだ。よし、励み、努力し、精進して、この一人一宇宙の心の世界をそのような世界に変えていこうではないか!」
と、呼びかけて、今日のブログを終わります。