「唯識で読み解くダンマパダ」(25)〜心の中に満月を輝かしつづけてみよう〜

今回は第24詩句を読んでいきます。
まず訳を記します。
 (第24詩句)
 奮起し、勤勉で、念を具し、行いが浄らかで、慎重に行動し、
また、自からを制御し、法にしたがって生活し、勤め励む人は、称讃が高まる。

まず、「念を具し」の念について。
 念の原語「スムリティ」は、記憶を原意とするが、「念」と訳され、心の中心体(心王という)に付随して働く細かい心作用(心所という)の一つで、波立ち散乱した心を静める最初の力となる重要な心作用です。
 たとえば、私は、昨日、何か嫌な事を経験したとします。すると、その出来事が私の心の中に記憶として生じ、私の心を掻き乱します。その私の乱れる心を静めるにはどうすればよいのか。そのためには、記憶を原意とする「念」の働きを心の中に起こせばよいのです。
 たとえば、中秋の名月に見た美しい満月の影像を心のなかに浮かべて、その満月を消すことなく、その影像に心を集中しつづけてみましょう。そのように集中しつづけている間は、いつも満月が心の中に輝き、嫌な出来事の思い出はなくなり、心は静まり安定しています。この、一つの満月を消すことなく思いつづけていくことができる力が「念」の働きです。その点を念とは「明記不忘」すなわち「明らかに記憶して忘れない」といいます。また、心が一つの対象になりきり、なりきっていくありようと言い換えることができます。その点を「心一境性」といいます。
 いま満月を譬えに出しましたが、いつもその実践をお勧めしている「吐く息、吸う息になりきり、なりきっていく」ことも念の働きです。念の力です。以前に念力でスプーンを曲げるとかいう、とんでもない念力が世間を惑わしましたが、念の力とは、散乱する心を安定し静まった心に導く力なのです。
 そのことを「念から定が生じる」といいます。そしてさらに「定から慧が生じる」といいます。このように心を念・定・慧と展開させることが大切です。
 そのためには第23詩句のブログで述べたように禅定を修しなければならないのです。私たちは、「念」から、
「あれこれと去来する記憶ではなくて、なにか一つの記憶を心の中に維持しつづけことの大切さ」
を学ぶことができます。そして、日常の何事でもいい、その事になりきり、なりきっていく生活を心掛けていこうではありませんか。
 次に「法にしたがって生活し」を考えてみましょう。法(ダルマ)には次の二つの意味があります。

釈尊によって説かれた「教え」
②教えがそこから流れでてくる「真理」

「教え」は「真理」から流れ出たものですから、両者は関係し合いますが、上記の「法にしたがって生活し」の中の法は①の教えとしての法であると解釈します。
 これに関して唯識思想が説く「法隨法行」という修行を紹介してみましょう。
 この「法隨法行」は「法行」と「法隨行」とに分けられます。『弁中辺論』では法随法行を法行(dharma-carita)と随法行(anudharma-pratipatti)とに分けて、法行には書写・供養・施他・若他誦読専心諦聴・自披読・受持・正為他開演・諷誦・思惟・修習行の十種の行があり、随法行には無散乱転変と無顛倒転変との二種があると説かれています。
 このうち前者の法行とは釈尊によって説かれた正しい教え(法)を本体とし、根拠とする修行をいい、写経する、供養する、読誦する、思惟するなどの身体的・言語的・精神的な具体的行為(身・口・意の三業)であり、後者の二種の随法行のうちの無散乱転変はヨーガのうちの止(奢摩他)、無顛倒転変は観(毘鉢舍那)を修することであると説かれています。
 このように、「法隨法行」という生き方の中にも、心を明鏡止水の如くにする「止と観というヨーガ」を修することの大切さが強調されています。
 私が最近、大きく問題視しているのは、たとえば電車の中で、時には歩きながらでも、携帯を操作しつづけている若者が急増していることです。かれらはもう情報の洪水に翻弄されて、静かに自ら思索する時間が皆無です。こういう若者が担う未来の社会はどうなるのか、と憂うのは、私一人ではないでしょう。
 「若者よ、時には吐く息、吸う息になりきり、なりきってみようではないか!」
と訴えて、今回のブログをおわります。、