「唯識で読み解くダンマパダ」(18)〜悲嘆し苦悩する毎日から歓喜する毎日へ〜

今回から第15、16詩句を読んでいきます。
 まず、訳を記します。

(第15詩句)
 悪を行ったものは、今世で悲嘆し、来世で悲嘆し、二世において悲嘆する。
 自分の行為が汚れれているのを見て、彼は悲嘆し、彼は苦悩する。
(第16詩句)
 福を為し得たものは、今世で歓喜し、来世で歓喜し、二世において歓喜する。
 自分の行為が浄らかであることを見て、彼は歓喜し、彼は大いに歓喜する。

 悲喜こもごもというように、生きる中で、悲しむこともあり、喜ぶこともあります。
このことに関して、この二詩句は、悪を行うから悲しみ、福を為し得たから喜ぶのであると、簡潔に説いています。これを読むと、感情的になんとなく肯けます。
 でも、さらに「悪」とは何か、「福」とは何か、と尋ねてみたくなります。そこで、まず、「悪」とは何かをと考えてみましょう。
「悪」と訳されるサンスクリットには、いくつかありますが、ここでは「パーパ」です。
「悪」とは「善くない」こと、すなわち不善ですが、不善のサンスクリットは「アクシャラ」で、唯識思想は、この「不善」を詳しく解明しています。
 不善とは「今世と来世にわたって損害を与え悩ますもの」「未来において苦をもたらすもの」「好ましくない結果をもたらすもの」と定義されます。「今世と来世とにわたる」というのは、上記の詩句と同じですね。
「未来において苦をもまたらす」というのも、たしかにそうです。たとえば、ある人と口論をしたとします。その場では口論はおさまったとしても、そのことがまた時折思い出され、嫌な気分になることがあります。それは、争った行為が深層心に「種子」を植え付け、それが時を経て表層心に芽を吹いたといえるでしょう。
 さらに悪いこととは何を分析してみましょう。
 たとえば人を殴り傷つけたという行為を例にとってみます。「その行為は悪い」といいますが、眼に見える悪い行為は、それが生じる悪い心あるからです。
 したがって、「悪」は、悪い心の領域にまでもどって考えなければなりません。
 悪い心とは善くない心、すなわち不善の心です。唯識思想では、不善の心として、瞋・忿・恨・悩・嫉・慳・害・覆・無慚・無愧の十の心をあげます。十すべての説明は省略しますが、瞋はいかる心、忿はおこる心、恨はうらむ心、悩はなやます心、嫉はやける心、です。どれをとっても悪い心ですね。
 最初の瞋すなわち「いかる心」が悪いということは容易に分かります。前にブログで書いたように、瞋は三毒(貪・瞋・癡)の一つに含まれ、煩悩の中でも根本のものです。
 ここで煩悩に二つの働きがあることに注目してみましょう。一つは、殴るなどの行為を相手に起こすことです。これは対他的な働きといえるでしょう。
 もう一つは、いかることによって自分も嫌な気持ちなります。これは対自的な働きといえるでしょう*。
 「悪」の分析はこのぐらいにして、次に、「福」とは何かを考えてみます。
 普通、悪にする概念は善ですが、この詩句では福と訳される「プンヤ」が対概念として用いられています。
 では福と何か。この原語「プンヤ」は福徳と訳されます。「福徳」とは「幸福をもたらすよさ」すなわち「品性」ということができるでしょうか。では、そのような「よさ」を身に付けるにはどうすればよいか。
 これに関して福業事という概念がヒントになります。福業事**とは、福をもたらす善行為をいい、飲食・衣服・香花・医薬などを施すことです。すなわち、布施のことです。
 また、不殺生などの五戒を護ることです。すなわち持戒のことです。
 悟り(菩提)を得るための資糧(たくわえ)として、福徳資糧と智慧資糧とがありますが、布施と持戒とは福徳資糧に含まれます。
 このように、対他的には、困っている人に物を施し、対自的には、戒(いましめ)を守って自からを律して生きることによって福が身に付くと説かれているのです。
 なんとなく福々しく、会えばホットするような人がいますね。こような人は、いま述べたような生き方をしているのでしょう。私たちも学ぶべきことです。
 最後に、「悪を行ったものは、(中略)自分の行為が汚れれているのを見て、彼は悲嘆し、彼は苦悩する。」「福を為し得たものは、(中略) 自分の行為が浄らかであることを見て、彼は歓喜し、彼は大いに歓喜する。」の中の「見る」について考えてみます。
 悪を行った人でも、自分の行為が汚れていると見る、つまり「気づく」という点に注目してみたい。悪いことをして、「自分は悪いことをした」とまったく気づくかない人を極悪人ということができるでしょうが、私はそのような人は誰もいないと信じています。
 人は誰でも自分の心のありよう、自分の行為を客観視する能力をもっていると私は思います。その、客観視できる力が「般若の智慧」です。
「般若」には、『般若心経』などの般若経群に説かれる般若と、細かい心作用(心所)としての般若とがありますが、この場合は後者の意味での般若です。
 私たちは、前の第14詩句に説かれたように、心を練磨して、この般若の智慧を発揮できるようになりなりたいものです。
 上の二つの詩句では、「今世」「来世」と説かれていますが、これについてはいずれ考えることにして、私たちは、
   「悲嘆し苦悩する毎日から歓喜する毎日へ」
 と訴えて今回のブログを終わります。

*煩悩には発業と潤生という二つの働きがある。発業が対他的で、潤生が対自的である。
**福業事とは、 人々が世話をすべき七つの事柄(七摂受事)の一つで、福をもたらす善行為をいう。施性福業事・戒性福業事・修性福業事の三つがある。このうち、施性福業事は飲食・衣服・香花・医薬などを施すこと、戒性福業事とは不殺生などの五戒を護ること、修福業事とは慈・悲・喜・捨の四無量心を修すること。