「唯識で読み解くダンマパダ」(17)〜貪欲の雨が降り込まないよう心を練磨する〜

 今回から第13、14詩句を読んでいきます。
 まず、訳を記します。

(第13詩句)
 あたかも、雨が、わるく葺かれた家を破り穿つように、
 貪欲が、練磨されていない心を破り穿つ。
(第14詩句)
 あたかも、雨が、よく葺かれた家を破り穿つことがないように、
 貪欲が、よく練磨された心を破り穿つことがない。
 
 二つの詩句の最初の「あたかも、雨が、わるく葺かれた家を破り穿つように」と「あたかも、雨が、よく葺かれた家を破り穿つことがないように」とは、分かりやすい譬えですね。
 釈尊の時代の家々の屋根はどのような材料で葺かれていたのでしょうか。
 日本においては昔は茅葺きの屋根でしたので、それが粗末に葺かれていれば、雨が家の中に漏れてしまことがあったでしょう。
 今でも、有名な茅葺きの屋根の旧家は、時々新しい茅で葺き換えられていますね。
 この詩句の中で、「雨」が「貪欲」に、「家」が「心」に、それぞれ譬えられ、雨が家を破り穿つように、貪欲が心を破り穿つ、と説かれている点に注目してみたい。
 雨に譬えられる「貪欲」の原語は「ラーガ」ですが、これは貪、欲、貪愛、貪欲、愛欲、などと漢訳されます。
 さらには、愛染明王(愛欲とい煩悩がそのまま悟りにつながることを表した明王)の愛染という訳もあります。「ラーガ」は、もともと赤に染まるという意味の動詞「ラジュ」から派生した名詞ですので、愛に染まったという意味の「愛染」は、訳としてはピッタリです。
 しかし、愛染の愛は主として男女の愛を意味する場合が多いので、ここでは「貪欲」と訳すことにしました。
 貪欲は漢訳では「貪り(むさぼり)、欲する(ほっする)」という意味に解釈できます。
 私たちは、いろいろのものを貪り欲して生きています。それを総じて表したのが三毒といわれる貪・瞋・癡の中の「貪」で、この原語も「ラーガ」です。
 では、貪る対象としてどのようなものがあるのか。これに関して『瑜伽師地論』
には次の十種が説かれています。
  取蘊、諸見、未得境界、已得境界、已所受用過去境界、惡行、男女、親友、資具、後有及無有、
 十種すべては省いて、二、三を取り上げて考えてみましょう。
 最初の「取蘊」とは、色・受・想・行・識の五蘊で自己を構成する五つの要素です。自己の構成要素を貪るとは自己を貪ることです。いわゆる自己愛といえるでしょう。自己愛を「我愛」といいますが、この我愛をなくすことは本当に難しい。私たちは死にたくない。それはこの愛しい自分が無に帰するのではないか思って不安の気持ちにかられます。
 ところが、「阿羅漢」はそのような我愛をなくしきった人と定義されます。私たちは、仏陀になれなくても、難しいことですが、少なくとも、死に臨んでも怖れることがない阿羅漢に成ろうという意志を持とうではありませんか。
 「諸見」とはさまざまな見解ないし意見です。私たちは、自分を中心に据えて、「自分はこういう見解である、意見である」と自己主張して他人と対立し、争っています。ときには一国の指導者の見解がその国の民衆を戦争にまで巻込むこともあります。これも典型的な貪りです。
 男女・親友・資具(身の周りの道具)への貪りは分かり易い。
 最後の「後有及無有」への貪り、すなわち「後有への貪り」と「無有への貪り」について説明してみます。
 「後有」とは死後にも存在することです。多くの人は、死んだ後にもう一度生まれたいという願いを持っていますが、それが一つの「貪」と考えられているのです。 
 「無有」とは死後に虚無になることです。この世で本当に苦しんだ人の中には、もう二度と生まれたくないと思う人もいるでしょう。自殺をする人がそのような人といえるのではないでしょうか。このように死後に虚無になろうと思うことも一つの「貪」としてあげられているのです。
 さて、このような貪欲は「練磨されていない心を破り穿つ」「練磨された心を破り穿つことはない」と詩句は説いていますが、つぎに「練磨された心」というのはどういう意味かを考えてみます。
 この中の「練磨された」の原語は「ヴァービタ」で、修、習、已修習、行、練、などと漢訳されるように、「修行によって磨かれた」という意味になります。「修行によって心が磨かれ、煩悩の塵垢を払拭して浄らかになった心」が「修行によって磨かれた心」すなわち「練磨された心」なのです。
 ところで、心を練磨する実践として「修行」という言葉が一般的ですが、この原語の一つに「ヴァーバナー」があります。この語は「ヴァービタ」と同じく動詞「ヴー」から派生した名詞で、「修習」とも訳されます。つまり修行と修習とは同じ意味ですが、修習は「数数修習(さくさくしゅじゅう)」と定義されるように、実践することをくりかえすことです。
 修行においては大切なことは、この「くりかえす」ということであると考えられているのです。たしかにそうですね。私たちは、この「数数修習」という言葉を心に刻印すべきです。
 次に「練磨された心」とはどういう心であるかを考えてみましょう。
 昔の銅からできた鏡を磨くと物を映すようになります。それは銅が光りを放つからです。これと同じく、私たちの心も磨くと光りを放出します。すると対象を照らし見ることができるようになります。
その「光り」とは「智慧」のことです。
 「照らし見る」すなわち「照見」という表現がある、あの『般若心経』の冒頭の経文をここで記しておきましょう。
 「観自在菩薩が深き般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は空なりと照見し、一切の苦厄を度したまう。」
「観自在菩薩が獲得した般若の智慧は、五蘊すなわち五つの要素から構成される自分を空なりと照らし見て、自分と他人とのすべての苦しみや災いを救済する。」という意味です。
 「空」はサンスクリットで「シューニャ」といい、これは「ゼロ」を意味する数学用語です。
本当に、私たちは一人一宇宙ですが、その宇宙がゼロに、空になったら、なんと素晴らしいことでしょう。
 ここで思い出したのが、あの「十牛図」の第八図「人牛倶忘」です。この図は丸い円で描かれ、「空一円相」ともいわれます。そのような心境に達した、あの牧人の心の中ではどのような変革が起こったのでしょうか。
 私が以前に著わした本『十牛図入門』(幻冬舎新書)で「人牛倶忘」を読んでください。 
もちろんそのような心境に到ることは困難です。
 でも諦めずに、観自在菩薩を自分に置き換えて、上記した『般若心経』の冒頭を毎日「数数修習」してみましょう。知らず知らずのうちに深層心(阿頼耶識)から心が磨かれていきます。
  最後に上記二つの詩句から学ぶべきことを簡潔にまとめて、今回のブログを終わります。

「心の中に貪欲という雨が降り込まないように、心を練磨しつづけよう。」


十牛図入門―「新しい自分」への道 (幻冬舎新書)

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