「唯識で読み解くダンマパダ」(16)〜物事を実の如くに知り、見る〜

第11詩句と第12詩句とを再び記してみます。

(第11頌)
 真髄でないものを真髄と考え、そして真髄を真髄でないものと見る、
 そのような人は真髄に達しなく、誤った考えの境界に住する。
(第12頌)
しかし、真髄を真髄として、そして真髄でないものを真髄でないものとして知る、
そのような人は 真髄に達し、正しい考えの境界に住する。

今回は、この中で、まず、「誤った考え」と「正しい考え」とを検討してみましょう。
この二つの考えの違いをまとめると次のようになります。
「誤った考え」 真髄でないものを真髄と考え、真髄を真髄でないものと見る。
「正しい考え」 真髄を真髄と知り、真髄でないものを真髄でないものと知る。
  真髄をA 真髄ないものを非Aで表すと、簡潔に次のようにまとめることができる。
「誤った考え」  非AをA、Aを非Aと考える。
「正しい考え」  AをA、非Aを非Aと考える。
 「如実知見」という用語がありますが、後者の「正しい考え」は、まさに如実知見、すなわち「実の如くに知り、見る」という認識のありようです。
 では、なぜ「誤った考え」が生じるのでしょうか。この原因を探るために、右の詩句では「考える」にあたる語は「サンカルパ」ですが、これを同義語である「ヴィカルパ」に置き換えてみます。
 「ヴィカルパ」はサンスクリットでvikalpaといい、二つに分けて(vi)考える(kalpa)こと、すなわち、前記したAと非Aとの二つに分けて考えることです。そして心の中心に「自分」を据えて、その自分が何事をも判断するから、誤った考えが生じてしまうのです。
 だから、誤った考えをなくすためには、判断の中心にある「自分」をなくせばよいことになります。
 仏道を歩むということは、まさにこの「私、私は、私の」と思い、そして語る心中の波を静めることであるといっても過言ではないでしょう。
 『瑜伽師地論』に
「心に定を得るが故に、能く如実に知り能く如実に見る。」
という一文があります。 禅定を修することの大切さが説かれています。
 でも足を組んでの坐禅を実践しなくてもいい。私は最近は、歩きながら、立ち止まりながら、座りながら、寝ていながら、吐く息・吸う息に「なりきり、なりきっていく」ことに専念しています。なりきっていく力が「念」です。その念によって、心が「定」となり、そして最終的に「慧」が生じてきます。
 本当に私たち一人ひとりの日常心は、大袈裟にいえば、怒濤のごとく波立っています。それを静める方法が、呼吸に意識を集中し続けることです。これはどこでもできます。
でも「よし、そうするぞ!」と決心することが出発点となります。
 どうかブログを読まれる方々も試みてください。
 最後に、「誤った考えの境界に住する」「正しい考えの境界に住する」の中の「境界に住する」を解説してみましょう。
 この原語は「ゴーチャラ」でgocaraと綴ります。牛(go)が動きまわる(cara)というのが原意です。牛は牧場の中であちらこちらを歩き回りますが、それから転じて、私たちの認識が行きわたる範囲を意味し、gocaraは所行、所行境、境界などと漢訳されます。
上記の詩句では最後の「境界」(きょうがい)をとって「境界に住する」と訳しました。
境界は「心境」、すなわち「心の状態」と言い換えることができるでしょう。
 私たちは、以前のブログで述べたように、一人一宇宙です。その一人一宇宙の心の状態、心境は各人相違します。朝気持ちよく目覚める人と、何かの悩みで心重く目覚める人もいます。
 上の詩句では物事の考え方の相違で住む境界が違うことを述べています。
考え方から、広く心の状態、つまり心境に目を向けてみましょう。できれば私たちの心境は常に「爽やか」でありたいものです。
 常に「爽やか」であることなど難しい、と思う人もいるかもしれません。では「どちらに転んでも大丈夫」という心境になろうと努力してみてはどうでしょうか。
 この度、有志と特定非営利活動法人「DIJOBU」を設立しました。このNPOのホームページ(https://www.facebook.com/npo.zai.daijobu?sk=timeline)を開いて見てください。
 人生何が起こるかわかりません。でもこのブログを読まれた方の中で、「どちらに転んでも大丈夫」という心境を目指して共々歩んで行こうと思い立った人がおられることを願って、今回のブログを終わります。