縁ということ(2)

(つづき)

 私たちは「自分」というものを設定し、それに執着し、その結果、いろいろと悩み苦しむ日々を送っています。自分だけが苦しむのならまだしもよい。自己と自己ならざるものとを分別し、我他彼此の世界を作り出し、そのなかで他人までをも苦しめています。
 まさに私たちは無明からはじまって生老死でおわる十二支縁起の世界のなかで、苦しみ、かつ罪を作りつつ生きています。「無明」とは、すなわち、無知とは、自分が縁起の法であると、すなわち、無我であるということを知らないことです。
 ところで、あのNHKの放映を見て私のなかの無明がいくらかなくなった気がします。今まで自分で生きているという考えが驕りではなかったのかという気持ちにかられたからです。
 卵子が受精してから二十日目に突然心臓が初めて鼓動し始めるシーンは感動的でした。何か宇宙にみなぎっている「生命力」といったものが、あのまだ形の整っていない幼い心臓を突き動かしはじめたように私には思われました。ああ、私の心臓も四十数年前のある瞬間に鼓動しはじめ、そしていまも自分を超えた何か大きな生命力のお蔭で打ちつづけているのだと思うと、何ともいえない不思議な気持ちにかられます。
 不思議といえば、古代人にとってはなにもかもが不思議であったことでしょう。だから神話や宗教が栄えたのです。
 自然科学はその不思議と思えた謎を一つ一つ解決してくれました。あのビックバン説にしてもそうです。宇宙とは、百数十億年前のあるとき、一点から突然に爆発し、素粒子・原子・分子を作りつつ次第に大きくなり、現在も宇宙の果ては光の速さに近い速度で膨張しつづけているというのです。
 もちろんこれは現代の発達した科学技術がもたらした宇宙開闢説です。したがってあの唯一の神による宇宙創造を説くキリスト教の考えとも、そして仏教の三千大千世界説とも違います。科学と宗教との産物の違いといってよいでしょう。
 でも二十世紀後半のまさに科学技術の頂点に達しそうな現代に生きる我々は、その科学技術の成果を単に物質面だけにいかすのではなく、人間いかに生きるべきかという人間の根本問題の領域においても、その成果をいかすべきであると思います。
 そういう意味で、科学の発見を仏教的な教えと結び付けて、どのように解決すべきかということになれば、やはり「縁起の故に無我である」という仏教の根本的教えとの関係でとらえるべきであると思います。
 たとえば、ビックバン説からしても、宇宙がコスモス(調和体)であるから、もしも宇宙の果ての速度がすこしでも変化すれば、ここ地球にまでその影響が及び、地球上の生命は、したがって私は、今こうしてここに生きることができないのです。
 宇宙の果ての存在によって自分の生命が保たれていると思うと、これまた不思議な感動を覚えます。
太陽にしてもそうです。太陽の表面の温度がすこしでも高下すれば、私たちはたちどころに滅んでしまいます。
 大地があるから足で立つことができる。植物の光合成のお蔭で酸素が吸える。オゾン層の覆いで紫外線を浴びることがない。どれも私の命を支えてくれています。おおげさに言えば、自分以外のありとあらゆる存在は自分にとって生命維持の「縁」でるといえるでしょう。
 自分で生きているのではない。自分以外の多くの他の力、支え、すなわち、「縁」によって生かされているのだ、と気が付く時、無我の教えを理解する第一歩を踏み出すことになるのではないでしょうか。

(つづく)