「唯識で読み解くダンマパダ」(13)〜食事において量を知り、勇猛に精進する〜

今回は、第7詩句と第8詩句の前回残したところを読んでいきます。
(第7詩句)
 浄らであると見て生活する、感覚器官を抑制しない、
 食事において量を知らない、怠けて精進することが少ない、
 そのような人を悪魔が征服する。あたかも風が弱い木を吹き倒すように。

 (第8詩句)
 不浄であると見て生活する、感覚器官をよく抑制する、
 食事において量を知る、信念がある、勇猛に精進する、
 そのような人を悪魔は征服しない。あたかも風が岩山に吹きつけるように。

この二つの詩句の中で、「食事において量を知らない」と「食事において量を知る」とが対となり、前者が否定、後者が肯定されています。 『ダンマパダ』は、主に教団(サンガ・僧伽)の修行者に説かれたとされていますが、当時は修行者たちは托鉢で生活を立てていたので、十分な食べ物がなかったと思われますが、そのような状況のなかで釈尊が「食事において量を知れ」と諭されている点に注目したい。いついかなる時でも、いかなる場所でも、食べ物をむさぼる人間がいたのでしょうか。でも釈尊はそのような人を対象にしたのではなく、食事において食べるものの量を知らず、食べ過ぎたり少なすぎたりすると、身体を害して修行のさまたげとなると忠告されたのです。
 食べ物をむさぼって大食いをする旺盛な食欲は人間の本能の一つといえるでしょう。現代は、まことに豊富な食料が容易に手に入る時代となりました。肥満な人が増えて、痩せるためのサプリメントや運動機械の宣伝が、常にテレビなどで放映されています。 このような時代だからこそ、私たちは「食事において量を知れ」という釈尊の諭告を心に刻印すべきです。
 「量を知る」ことは、食事においてだけではなく、自らが使用する衣服・食物・寝具・医薬などの生活必需品の分量をよく理解するようにと説かれていることを付記しておきます。
 次に、「怠けて精進することが少ない」と「勇猛に精進する」という対の文を検討してみましょう。 まず「精進」ですが、このサンスクリットは「ヴィールヤ」で、男らしさ、勇気、力などを意味する語で、勤、正勤、精勤、精進などの漢訳がありますが、私はこのなかで「精進」は、まさに妙訳であると感心しています。なぜならこの訳語は「精して進む」すなわち「心の中から余分なものを取り除いて、まじりけのないものにしつつ、所期の目的に向かって突き進む」と解釈できるからです。精米、精錬という語に比して、「精心」という語を造ってはどうでしょうか。「心の中の余分なもの」とはなにか、またそれを取り除くにはどうすればよいか、さらには所期の目的とはなにか、などについてはいずれ詳しく論じてみたいと思います。
 二つの詩句で、精進について、「怠けて精進することが少ない」と「勇猛に精進する」とが対比されています。
 人間だれしもが怠け心を持っています。<唯識>では、その怠け心として「懈怠」と「放逸」という煩悩が説かれます。どちらも「善を修し悪を断じることにおいて怠ける心」と定義されます。すこし細かいサンスクリット原語の話になりますが、第7詩句の中の「怠けて精進することが少ない」の「怠けて」の原語は「クシーダ」で、それは「懈怠」と同じ原語です。
 原語はとにかく、「少ない精進」と「勇猛な精進」とが対比されています。この中の「勇猛」とは、「いさましい、いさましくたけだけしい、勇気がある、強くたくましい」などの意味ですが、「勇猛精進」という語は、<唯識>の『瑜伽論』の中には数多く認められ、精進の代表としてあげられています*。 
 すでに述べたように、人間はだれしもが怠け心をもっています。私もそうです。でもこの「勇猛精進」の語を目の前にすると、「よし、がんばるぞ!」という勇気が湧いてきます。
 言葉が不思議と深層から勇気を引き出してくれるのですね。
 次の「悪魔が征服する」と「悪魔が征服しない」の中の悪魔について考えてみます。悪魔のサンスクリットは「マーラ」で、その音訳が「魔羅」で、省略して「魔」といいます。この魔として蘊魔・煩悩魔・死魔・天魔の四つが説かれますが、この二つの詩句での悪魔は、それらすべてを含んだものとしてとらえてよいでしょうが、分かりやすい魔として「煩悩という魔」と「死をもたらす魔」とをあげることができるでしょう。悪魔に征服されない人とは、つまり煩悩になやまされることがなく、死に対する怖れや不安がなくなった人であるというのです。もしもそういう人間なれたら、なんと素晴らしいことでしょうか。
 そういう人間とは、最後にある喩えのように、強風に吹かれても微動だもしない岩山のような人物です。仏陀釈尊はそのような人だったのです。私たちも、少しでも釈尊の心境に近づくべく、日々精進していきましょう。


*『ダンマパダ』の中の勇猛精進のサンスクリットは「アーラブダ・ヴィールヤ」ですが、『瑜伽論』の中の勇猛精進も同じ原語です。