「唯識で読み解くダンマパダ」(12)〜身体を不浄と見て生活し、感覚器官を抑制する〜

今回から第7詩句と第8詩句とから学んでいきます。
(第7詩句)
 浄らであると見て生活する、感覚器官を抑制しない、
 食事において量を知らない、怠けて精進することが少ない、
 そのような人を悪魔が征服する。あたかも風が弱い木を吹き倒すように。

 (第8詩句)
 不浄であると見て生活する、感覚器官をよく抑制する、
 食事において量を知る、信念がある、勇猛に精進する、
 そのような人を悪魔は征服しない。あたかも風が岩山に吹きつけるように。

 この第7詩句と第8詩句とは、これまでと同じく対となった一組ですので、二つをまとめて検討します。 
 まず、「浄らかであると見て生活する」と「不浄であると見て生活する」について考えてみます。
 これは視覚の対象である身体を「浄らかである」と見るか、「不浄である」と見るか、という二つの見方が対となって語られています。経の中には、「托鉢の出かけた僧が甚だ美しい少年を見て身心が焼悩する」という記述がよくみられますが、僧侶だけではなく、私たちは、美しい身体を眺めてそれに執着します。 これについて、仏教は厳しい見方を、すなわち、身体の外界の美しさ、浄らかさにではなく、その本質が何であるかを見究めることを要請するのです。 
 そのような要請の一つとして、「不浄観」という修行が説かれます。それは、死体がおかれた場所(塚間)に行って、死体が腐乱していく様相を、たとえば青ぶくれになったさま(青と)、ただれて膿が出ているさま(膿爛)、腐敗してふくれたさま(ぼう脹)、腐って赤くなったさま(異赤)、鳥獣に食べられるさま(被食)、うじ虫(虫蛆)が出ているさま、死体が動かないさま(屍不動)、骨鎖になっているさま、などを見てそれらを心に刻み、再び静かな場所に返ってそれらの様相を心の中に浮かべて観察し・思惟して身体の本質を見究めて身体へ貪欲を断ちきる修行です。(この不浄観に基づいて描かれたのが、あの有名な「小野小町九相図」です)
 もちろんこのような厳しい修行は、現代の私たちにはできません。しかし、私たちは、身体だけではなく、何事につけても、「現象」のみの観察にとどまることなく、その「本質」を見究める姿勢が大切です*。 
 突然、現代の風潮への問題提起になりますが、今の日本の若い女の子たちは、顔を飾り、脚を大胆に露出する風潮があります。もちろん、時代の風潮として、それはそれでよいのかもしれませんが、問題は、それだけでは、今いった「現象のみの観察にとどまることなく、その本質を見究める姿勢」が忘れ去られてしまうのではないでしょうか。 だから、いまはそうでも、いずれは歳を取るにつれて肉体が衰えていくことを嘆くことになるのです。
 鏡に映る自分の顔を眺めて、「これは一体何か」とときには追究してみてはいかがでしょうか**。 次の「感覚器官を抑制しない」と「感覚器官をよく抑制する」とについて考えてみます。
 感覚器官はサンスクリットでインドリヤといい、根と訳されます。インドリヤそのものには「根(ね)」という意味はありませんが、インドリヤは創造の神・インドラに由来する語で、「ものを生み出す力を持つもの」という意味となり、植物の「根」は、芽や茎やないしは枝や葉を生じる力をもっているからインドリヤを「根」と漢訳したのです。
 仏教ではそのようなものとして二十二の根を考えますが、そのうちの五つが、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根で、この場合の根とは「感覚器官」を意味します。
 感覚器官がなぜ根といわれるのか。それは、「物」としての器官が「心」を生じる力を有しているからです。たとえば、眼根すなわち眼という器官は角膜・水晶体・網膜などの、いわば「物」から構成されていますが、それが視覚という「心」を生じる力を持っているのです。
 考えてみると、眼が見えるということは、まことに不思議なことですね。眼の前にバラを見る。それはバラという「物」と眼という「物」とが相い対するときに、バラを見るという「心」が生じるのですから。ときには、眼を開けて何かを見たときに、「ああ、見える。なんて不思議なことか!」と叫んでみてはどうでしょうか。身近なところに不思議なことが起こっているのです。 
 それはともかく、このような感覚器官を抑制しない人と抑制する人との二人が詩句で対比されており、前者が否定、後者が肯定されています。 
 感覚器官を抑制しない人は、見たり、聞いたり、味わったりする感覚のおもむくままに委せて、視覚、聴覚、味覚の対象に縛られ、それらに執着することになります。、いつまでも美しい肉体であって欲しい、心地よい虫の声をいつまでも聞いていたい、美味しい食べものをまた食べたい、などの気持ちが起こるからです。
 総じていえば、感覚器官を窓口として、そこからさまざまな「煩悩」が生じるから、感覚器官を抑制する必要があるのです。 経論には「根門を守護する」ということが力説されています。眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五つの感覚器官から貪りやいかりなどの煩悩が流れ出ることから、それらを出口・門に喩えて根門といい、根から煩悩が流れ出ないように根のはたらきを抑制することを守護根門、すなわち「根門を守護する」といいます。よく「出家して禁戒を受持して根門を守る」と説かれていますが、出家しなくても、私たちは、煩悩という汚れから心を浄化するためには、感覚器官を守り抑制して生活する必要があるのです。 
 すこしブログが長くなりましたので、残りは次回にまわし、今日はこれで終わりにします。

*<唯識>は、現象を「相」、本質を「性」といい、ヨーガを修して「遣相証性」すなわち「相を遣って性を証する」ことを目的とします。<唯識>が性相学といわれる所以です。
**鏡に映る自分の顔も、心の中の影像です。ヨーガの目的は「影像を超過して所知事を現量する智を生じる」ことです。所知事とは、あるがままのもの、すなわち「真如」です。真如を現前に見る智慧を生じることがヨーガの目的です。