「唯識で読み解くダンマパダ」(8)〜「怨み」について〜

今回から第3詩句と第4詩句の解説に入ります。
まず訳を記します

(第3詩句)
私を罵った、私をなぐった、私に勝った、私から奪った、
という、このような思いに縛られる人は、怨みが息むことがない。

(第4詩句)
私を罵った、私をなぐった、私に勝った、私から奪った、
という、このような思いに縛られない人は、怨みが息む。

第1と2の詩句から、さまざまな現象が生じてくる心のメカニズムを解き明かしましたが、この第3と4の詩句では、現象として「怨み」という心の汚れが問題とされています。怨む心は、本当に誰しもが懐く心の汚れ、すなわち煩悩です。したがって、怨が付いた漢語を<唯識>の論書に探ってみても、怨からはじまって、怨害・怨競・怨嫌・怨恨・怨嗟・怨讐・怨讎・怨諍・怨心・怨憎・怨賊・怨対・怨報・怨品など数多くあります(横山紘一著『唯識 仏教辞典』(春秋社刊)94〜95頁)。怨む心がいかに問題とされているかがこれによっても分かります。
 さて、怨みが生ずる原因として詩句では「私を罵った、私をなぐった、私に勝った、私から奪った」と説かれています。このうち、「私を罵った」は、他人の言語的な行為が原因です。また「私をなぐった」は身体的な行為が原因です。日常的によくある、言い争うや喧嘩が原因となるのです。次の「私に勝った」は競争において相手に負けたときにその人に怨みが生じることを述べています。
 現代に置き換えてみますと、現代はまさに競争社会です。若いときから受験での合格・不合格、働きはじめてからは会社内における出世競争、などがありますが、他者との優劣を競うことは、いつの時代でもある人間の本性です。
 最後の「私から奪った」というのはどういことでしょうか。古今を比較すると、昔は、日本の治安は他国に比べて非常によかったといわれています。しかし今は夜の暗やみを歩くのも危険がある時代となりました。それは貧富の格差が大きくなり生活に困窮する人が増えたためだといわれています。 
 ここで一つ余談をいたします。もう三十年以上の前のことですが、「インド思想」という話し合いの授業でのことです。ある学生が、インドでの一ヶ月ほどの旅で経験したことを話してくれました。 
 それはカルカッタの町の中での出来事。 路上で食事をしている家族がいたが、一匹の犬が突然食事を奪い、くわえて逃げ去ったので、一人の子供が「どろうぼう、どろぼう」と叫びながら犬を追いかけていった、というのです。日本ではそのような光景をみたことがないその学生は、すこし興奮気味にこの話しをしてくれました。インドではそういうことがあるのだと。なぜか知れませんが、この話が今でも私の心から消え去りません。
 さて詩句の後半を考えてみましょう。後半は、「このような思いに縛られる人は、怨みが息むことがない。」と続きます。 たしかにこのように思えば思うほど、ますます怨みは増大し、怨みが息むことはありません。 
 怨みが心にどのように作用するのか。そこを詩句では、このような思いに「縛られる」と表現している点に注目してみましょう。心が強く堅い思いという縄に縛られ、束縛されて自由に爽快に生きることができなくなっているのです。第3詩句は私たちの現実の心のありようを述べたものです。そこで、前の二つの詩句の場合と同様に、次の第4詩句で理想の心のありようが、すなわち、「このような思いに縛られない人は、怨みが息む。」と述べられているのです。問題は、このような思いによる心の束縛から解放されるにはどうしたらいいのか。この答はすでに前のブログ(8月18日)で書いていますので、そこを再読してください。

唯識 仏教辞典

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