「唯識で読み解くダンマパダ」(7)〜地獄も極楽も今生にある〜

今回は、第1詩句の後半と第2詩句の後半とを解説してみます。

(第1詩句)
  すべての現象は意を先とし、意を主とし、意から作られる。
  もしも邪悪な意で語り、行うならば、
  彼に苦しみが従うこと、あたかも車輪が車を引くものの跡に従うがごとくである。
(第2詩句)
  すべての現象は意を先とし、意を主とし、意から作られる。
  もしも清らかな意で語り、行うならば、
  彼に楽しみが従うこと、あたかも影が消えることがないごとくである。

第1詩句と第2詩句との後半だけを再記してみます。
 
 もしも邪悪な意で語り、行うならば、
 彼に苦しみが従うこと、あたかも車輪が車を引くものの跡に従うがごとくである。

 もしも清らかな意で語り、行うならば、
 彼に楽しみが従うこと、あたかも影が消えることがないごとくである。

 まず、「苦しみ」と「楽しみ」について考えてみましょう。
 あの時は苦しかったという出来事を思い出してみましょう。病気で苦しかった、ということがありま すが、それは生・老・病・死の四苦の中の病の苦しみです。
 では四苦の中の生苦は、すなわち生きている中での苦しみはなんでしょうか。私は長くこれが何か分か りませんでしたが、あるとき、あの宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の次の一節に触れてそれが明らかに なりました。

       東ニ病氣ノコドモアレバ
       行ツテ看病シテヤリ
       西ニツカレタ母アレバ
       行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
       南ニ死ニサウナ人アレバ
       行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
       北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
       ツマラナイカラヤメロトイヒ

 最後の「北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ」を読んで、ああ、生きている苦しみは、他者と喧嘩し対立することであると、はっきり分かったのです。
 他人と、あることで対立し喧嘩しすると、嫌な気持ちでなります。苦しみます。
 ところで「対立」は、さまざまな環境において起こり、その内容は質が違います。家庭内において、地域の中で、はたらく職場において、さらに利害が絡み合う企業において、そして大きくは、民族間、国々の間において、種々の対立が起こります。
 このように質が違う種々の対立がありますが、対立の状況におかれた「人間」の心の中に共通してあるのは、「他者を憎む、嫌う」という心情ではないでしょうか。
 身近の例を考えてみましょう。本来は愛し合う親子関係が崩れて子が親を憎み、親を殺す事件がよく起こります。殺すまでに至った子の心の中には、親に対する強い憎しみがあったことでしょう。
 身近なこのような出来事から、広く、民族間、国々の間で対立する人々の心の中には、武器を持って他者を殺したいというほどの憎悪の念が燃えたぎっているのです。
 『ダンマパダ』の詩句は、このような出来事を、総じて「もしも邪悪な意で語り、行うならば、彼に苦しみが従う」と語っているといえるでしょう。
「邪悪な」のサンスクリットは「プラドュシュタ」で、これを邪悪と訳しましたが、もともとは「嫌う、憎む」という意味です。
 したがってこの箇所は「もしも嫌い憎む心をもって語り、行うならば、彼に苦しみが従う」という意味になります。
 次の第2詩句の「もしも清らかな意で語り、行うならば、彼に楽しみが従う」を考えてみましょう。「憎悪の心」の反対の「清らかな心」が説かれています。「清らかな」のサンスクリットは「プラサンナ」で、これは清浄、明浄、純浄などの漢訳がありますが、この語にある「好意ある、慈悲深い、親切な」という意味の語としてここでは解釈することにします。「好意ある心」ととらえるならば、「憎悪の心」の対となります。
 昔、ある仏教の本で、「人と対立している世界が地獄であり、人と和している世界が極楽である」という文を読み、地獄も極楽も来世にあるのではない、この今世にあるのだと納得しました。
 極楽に生きる、つまり楽しみが結果するためには「人に好意を抱き、慈悲深く、親切に生きる」生き方をすればよいのですね。
 釈尊は、第1詩句で現実の私たちの生き方を示し、第2詩句で理想の生き方を示してくださったのです。
 釈尊の教えにしたがい、現実に埋没することなく、あくまで理想に向かって、一日々々
生きて生きましょう。そのように誓って生きる人が一人でも、二人でも増え、そのような人が連鎖反応で増え続けていくことを願って、今回のブログを終わります。