「唯識で読み解くダンマパダ」(5)〜作すべからざることは行わず、作すべきことを常に行なう〜

前のブログの最後に「悪い暗い思い出に翻弄されて苦しむ人が多くいます。このような人は、どのような生き方をしたらいいのでしょうか。その生き方を『ダンマパダ』の中に探ってみようと思います。」と述べましたが、次の一詩句がその答として適切ではないかと思います。

(第293詩句)
 もし常に善く勤め励み、身を念じ、
 作(な)すべからざることを行わず、作すべきことを常に行ない、
 思慮があり、智慧がある、そのような人びとには、もろもろの漏がなくなる。

この詩句の中で、まず「漏」という語について説明します。漏の原語アースラヴァは、お粥を焚くと釜の口から吹き出してくる粥のあわを原意とし、私たちの身から流れ出る煩悩をいいますが、ここでは、アースラヴァにある「心を掻き乱す想い」という意味に解釈します。「悪い暗い思い出」は、まさに「心を掻き乱す想い」です。
 上記の詩句では、この想いをなくすために、つぎの三つのことがあげられています。
 ①善く勤め励む。
 ②身を念じる。
 ③作(な)すべからざることを行わず、作すべきことを常に行なう。
 ①の「善く勤め励む」こと、これは何に向かって勤め励むのか、すなわち精進するのか、が問題となりますが、これについては後日考えてみましょう。
 ②の「身を念じる」ことについて少し詳しく考えてみます。
 以前のブログで「すべてのいのちを支えている有り難い吐く息・吸う息に今日も感謝しつつ、なりきり、なりきっていこう」と提案しましたが、この「なりきり、なりきっていく」力が「念」という心のはたらきです。念はサンスクリットでスムリチィといい、記憶と訳されますが、それは、心の中に生じた現象に、たとえば、吐く息・吸う息に心を集中せしめる力です。
 集中する対象として吐く息・吸う息をあげましたが、この詩句では「身を念じる」と表現されています。それは身の中に展開する吐く息・吸う息だけではなく、身体のいろいろのありようになりきり、なりきっていくことが意図されています。歩くときは歩くことに、立ち止まっているときは立ち止まることに、座るときは座ることに、臥すときは臥すことになりきっていくことです。
 このように、行・住・坐・臥だけではありません。たとえば、食事のときには、食べることに、食べ物の味に、噛むことに、茶碗の上げ下げに、なりきっていくこと、これも「身を念じる」ことです。
 ここまで述べてきたことを実践するならば、その時だけかもしれませんが、悪い暗い思い出に心は掻き乱されることがないでしょう。
 以上の①②に比べて、より大切なことは③、すなわち
   「作すべからざることを行わず、作すべきことを常に行なう」
ことです。
 生きる中で問題とすべき事柄に二つあります。哲学的な用語でいえば、「存在」と「当為」です。Sein(ザイン)とSollen(ゾレン)です。仏教用語でいえば前者が「所知」、後者が「所作」です。所知とは「知られるべきこと」、所作は「作されるべきこと、すなわち作すべきこと」という意味です。
人間である限り、この二つの事柄にかかわって生きていかなければなりませんが、次の
西田幾多郎の、
 我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なる者 であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明らかにせねばならぬ。(『善の研究』)
という言にもあるように、先ずは、世界(天地)と自分(人生)とは一体何かを明らかにする必要があります。そのために「善く勤め励む」ことが、「身を念じる」ことが大切です。
その上で、智慧を得て、「心を掻き乱す想い」がなくなっていくのであると、前掲の詩句は語っています。
 ここで、所作について、もう少し書いてみます。「成所作智」という智慧があります。それは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識を転じて獲得される覚者仏陀智慧です。
 「成所作智」*とは所作を成就する智慧、すなわち「作すべきことを完成し成就する智慧」のことです。眼識などの五識、すなわち五感覚を「作すべきこと」に向けている、苦しむ人々の救済**のために五感覚をはたらかせている、それが仏陀である、というのです。私は、この智慧を聞くにつけ、仏陀とはなんと素晴らしいお方だと感動を覚えます。と同時に、私は、見る、聞く、ないし触るという五つの感覚を全部自分のために使っているではないか、と自分を恥じます。
 もちろん私たちは容易に仏陀(覚者)にはなれません。でもこの「成所作智」という言葉を心に刻み、「作すべからざることを行わず、作すべきことを常に行なおう」と自分に言い聞かせ、一歩でも半歩でも、仏陀の心境に近づくよう、共々精進していきましょう。

*  八識を転じて五智を得る、という転識得智については、他の機会に論じてみます。
** 所作は詳しく「所応作」と書き、「応に作なれるべきこと」という意味で、一切の衆生を救済することです。これは、総じていう利他行ですが、身近には、困った人、苦しんでいる人に手を差し伸べる行為が所作であるといえます。「他が先で自は後」の精神で、日常生活の何事においても他者を優先して生きることが所作としての利他行です。