「唯識で読み解くダンマパダ」(3)〜自分が見るのではなく、見せられている〜

 『法句経』の解説に戻りましょう。

(第1詩句)
  すべての現象は意を先とし、意を主とし、意から作られる。
  もしも邪悪な意で語り、行うならば、
  彼に苦しみが従うこと、あたかも車輪が車を引くものの跡に従うがごとくである。

 今日は「意を主とし、」を、すなわち「心を主とし、」を考えてみます。この一文の主語は「すべての現象」ですので、「すべての現象は心を主(あるじ)とする」ということになります。ところで、一人一宇宙の主、すなわち主人公は誰かと問われると、深く考えないときは「自分だ、私だ」と答えるでしょう。そう考えて、たとえば、私が一本のバラを手にして、目の前にいる人に、「このバラを誰が見るのですか」と聞くと、大抵の人は、無反省に「それは自分が見るのです」と答えてきます。そこで私が「自分ではなく眼が見るのではないですか」と問うと、その人は、「そうだ眼が見るのだ」とはっと気が付いて、そうだとうなずきます。
 でも問答はこれで終わりません。そこで私が相手に「眼を閉じてください。そして開けてみてください。」というと、相手はそうします。そして眼を開けたときに「あなたはこのバラを見ざるをえませんね。眼を閉じているときに、次に眼を開けた時は、バラを見ないぞ、思っても見ざるをえませんね。」というと、相手はこれにもうなずきます。
 そうです、私たちは、自分が見るのではなく、見せられているのです。心の中に「自分」という主人公がいて、それが見ているのではなく、心が主人公で、その主人公によって見せられているのです。見るという視覚だけではなく、聞くという聴覚、臭うという臭覚、味わうという味覚、触るという触覚も、すなわち五感覚すべては、「感覚するのではなく、感覚させられている」のです。能動的ではなく、受動的なのです。
 話を一気に拡大しましょう。この一人一宇宙の存在も受動的です。自分が目を覚ますのではなく、突然に「一人一宇宙」が、いわばビックバン的に出現します。その中で、あれを見る、これを聞く、ないし、あれこれと考える、という心のはたらきが生じますが、これらも受動的に生じてきます。
 話をもっと拡大しましょう。総じていうならば、私たちは「生きている」のではなく、「生かされている」のです。これは事実であり、真理です。 よく「生かされている」のだといわれますが、この事実の認識は、今日述べた身近な「見る」というはたらきが一体なにかを追究することが始めて見ようではありません。

   「身近な具体的な事柄に立脚しての思考」
 
 これは生きる中で大切ことです。