「唯識で読み解くダンマパダ」(2)〜吐く息・吸う息になりきってみよう〜

『ダンマパダ』の第1詩句を再記しましょう。

(第1詩句)
  すべての現象は意を先とし、意を主とし、意から作られる。
  もしも邪悪な意で語り、行うならば、
  彼に苦しみが従うこと、あたかも車輪が車を引くものの跡に従うがごとくである。

 今回は、「心(意)を先とするすべての現象」ということについて考えてみましょう。「すべての現象」の中の「現象」とは「存在するもの」です。たとえば、眼の前に見るバラの花が一つの現象です。
ところで、それを見た瞬間は、それが何であるかまだ分かりません。次に、「それはバラである」と言葉でとらえると、それは「バラ」となります。そして「なんと美しいことか」という思いを付与して、「ああ、そこに美しいバラが存在する」という認識が完成します。したがって、バラの花だけが現象ではなく、「言葉」も「思い」も心の中に生じた存在すなわち現象です。
まとめると、現象として「影像」と「思い」と「言葉」の三つがあることになります。(このうち影像は、いまだバラであると言葉で認識する以前の視覚の対象です)
 この三つのが複雑にからみあって、たとえば、「あの人は憎い」「この品物を自分のものとして欲しい」「これに触ると手が汚れる」等々のいわゆる煩悩が生じ、ないし「老けるのは寂しい」「この病気は癌ではないかと不安である」「死ぬのが恐い」などの苦しみが生じるのです。
 ところで、このような煩悩や苦しみに迷わされないためにはどうすればよいでしょうか。
 そのためには、三つの中の「影像」になりきり、なりきって、「思い」と「言葉」を心の中に生じないようにすればよいのです。たとえば、「あの人」「この品物」「手の感触」「この病気」等々になりきり、なりきればよい。
 でもこれはなかなか容易なことではありません。なぜなら、私たちの「心」は、「思い」と「言葉」という、いわば風によって怒濤のごとく波打っている海のようなものですから。
 その風を静めるには、たとえば、吐く息・吸う息になりきり、なりきってみましょう。そのためには、坐禅を行うことが最適です。でも静かに坐らなくてもよい。道を歩きながらでも、信号が換わるのを待っている間でも、また朝目覚めてとき蒲団に横たわったままでも、吐く息・吸う息になりきるように心掛けてみましょう。
 これを一日、二日、一週間、一ヶ月、一年・・・・と長く続けていくと、かならず心の中の風が止んでいきます。
 私の心もいつも風で波打っています。それを静めるために、行・住・坐・臥が息になりきるように心掛けて生活しています。どうかこのブログを読まれた方も、そのような生活を心掛けてみてください。
 ところで、前述した「死ぬのが恐い」という苦しみに迷わされないためにはどうすればよいか、という問題が残されています。私たちは死んだことがないから「死」という影像は、他人の死を通してしか作り出すことができません。また「自分は死ぬのだ」という言葉と思いでしか、死に対処せざるをえません。
 では、このような「死」への不安・恐怖を取り除くためにはどうすればよいか。
 一つは、菩提樹下で悟られた釈尊の「私は不生、不老、不死の世界に触れた」という言明を信じて、よし自分もそのような心境に至ろうと決意して、無上正覚を目指して修行することです。でもそれは私たちはにはできない。
 とすると、そうすればよいでしょうか。
 今日、たまたま、以前に唯識の講義で出席され、いま難病で苦しんでいる人と電話で話し合う機会がありましたが、その人は、講義の中で「一人一宇宙」ということを聞いたこと、そして「このいのちは生かされている。だから感謝して生きよう」ということを学んだことによって、勇気をもって難病に対処しています、と語られました。
 本当に私たちのいのちは無量無数の縁によって生かされています。その事実を生活の一コマ一コマのなかで実感して、「ありがとうございます」という感謝の気持ちで過ごしていくならば、「感謝の気持ち」が「死への不安や恐怖」を消し去ってしまうのではないでしょうか。たまたま今お盆です。先祖の皆さんに、いな、それだけではない、地球に生じた38億年前の根源的ないのちの一滴に、そしてそれから連綿と続いてきたいのちの流れに、そして今自分のこの身心に流れ来たった「このいのち」に手を合わせて感謝してみましょう。そこに不思議な思いが生じます。その思いは、かならずや「死」を乗り越える力となるでしょう。