「唯識で読み解くダンマパダ」(1)〜すべての現象は心を先とする〜

今回のブログから『ダンマパダ』を唯識思想によって読み解いていこうと思います。題して、
    「唯識で読み解くダンマパダ」
です。
『ダンマパダ』のダンマは真理、パダは言葉という意味ですので、『ダンマパダ』とは「真理を述べた言葉」という意味で、漢訳で経を付けて『法句経』と訳されます。423の短い詩句から成り、後の仏教の経論で展開される難しい教理は述べられていなく、人間いかに生きるかを易しく説き示し、また釈尊の生の言葉が伝わってくる、人生の指南書のような書です。すでにこの書に関しては、友松圓諦氏の『法句経』(講談社)や中村元氏の「真理のことば」(岩波文庫)などが出版されていますが、私はこの度、サンスクリット語の原文にあたりながら、私なりに翻訳し、かつ説かれた詩句一つ一つを唯識思想の教理に基づいて、その内容をさらに深めて解説していくことにしました。

(第1詩句)
  すべての現象は意を先とし、意を主とし、意から作られる。
  もしも邪悪な意で語り、行うならば、
  彼に苦しみが従うこと、あたかも車輪が車を引くものの跡に従うがごとくである。

 まず詩句の中にある「意」を説明してみます。いわゆる「こころ」という和語に相当するサンスクリットには「チッタ」と「マナス」と「ビィジュニャーナ」との三つがあり、順次、心、意、識と漢訳されます。この三つは、元々は同義語とされていましたが、唯識思想(以下<唯識>という)では最終的に「チッタ」が阿頼耶識、「マナス」が末那識、「ビィジュニャーナ」が六識を意味するようになりました。『ダンマパダ』の中の「意」(マナス)は、もちろん<唯識>でいうマナスではありません。したがって、まず、ここのマナスとはいわゆる「こころ」(心)一般を表す語ととらえてみましょう。
 したがって、「すべての現象は意を先とし、意を主とし、意から作られる。」は「すべての現象は心を先とし、心を主とし、心から作られる。」と言い換えることができます。
 このように考えてくると、この一文は、まさに<唯識>の根本教理を表していると解釈することができるでしょう。
 次に、「現象」という言葉を考えてみましょう。現象は普通、ギリシャ語の「フェノメノン(phenomenon)の訳ですが、それをここで用いました。現象にあたるサンスクリットは「ダルマ」で法と漢訳されます。この語はいくつかの意味を持つ言葉ですが、この場合は、「存在するもの」という意味です。
 ここで、「すべての現象」すなわち「すべての存在するもの」は、どこに存在するのか、という問いを発してみたい。たとえば、眼の前に一本のビンを見る。そこでそのビンを見ている人に、「あなたはそのビンがあなたを離れてあなたの外にありますか」と私が聞くと、大抵の人は「私の外にあります」と答える。そこで私は「あなたはあなたの外に出たことがありますか」と聞くと、「出たことはない」と答えます。そこで「出てじかにそのビンを見たことがないのに、なぜビンは外にあると言えるでしょうか」と問いつめることによって、その人は、ビンは外にあるのではない、ビンは内にあることに、すなわち心の中に存在することに気づくようになるのです。
 ビンだけではありません。「すべての現象」すなわち「すべての存在するもの」は心の中に存在するのです。
 いま「心の中」といいましたが、一人一人の心は別々のものです。私には私の心があり、あなたにはあなたの心があります。そして私の心の中にあなたは入ってくることは、また逆に、あなたの心の中に私は入ることはできません。いま、心の中を宇宙という言葉で表現すれば、「一人一宇宙」です。
 子供のときからよく、「広大な宇宙にくらべると自分など針の先のようなちっぽけな存在なのだ」と聞かされていましたが、大きくなって、坐禅をし、<唯識>を学ぶに及び、この「一人一宇宙」であるということが事実であることをますます確信し理解することができるようになりました。
 現代、宇宙に関する研究は急速に発展し、年々新しい情報が私たちに伝わってきています。それはそれで大切でまた興味を引く分野です。でも、「自分とは一体何者か」「自分はいかに生きるか」という人生の大問題を解決するためには、一人一人の宇宙、すなわち一人一宇宙の中の現象を追究し観察することが肝要です。
さきほど、「すべての現象」すなわち「すべての存在するもの」は、どこに存在するのか、と問いましたが、それは一人一宇宙の中にあるのです。そしてその「すべての現象は心を先とする」と『ダンマパダ』に説かれています。「〜を先とする」とは「〜を原因とする」という意味です。つまり、「心」が原因で「すべての現象」が結果なのです。
さあ、原因である「心」とは何か、結果である「すべての現象」とは何か、を追究する旅に出かけましょう。