自分とは言葉の響きがあるだけである

 7月6日のブログで、
 
  この「一人一宇宙」という事実認識から、「いったい何か」「なぜか」「いかに生きるか」という人生の三大問いかけを解決する旅路に出発しましょう。

と提案しましたが、「いったい何か」という問いかけは、まずそのように問いかける「自分」とは何か、を考えてみましょう。
 結論から言いますと、少し衝撃的な言い方ですが、
 「自分と言葉の響きがあるだけである」
のです。そんな馬鹿な、「自分の心」「自分の身体」「自分の家族」「自分の会社」「自分の国」などなど、沢山あるのではないかと反論できます。でもここでいまあげた「自分の〜」という言葉を心の中に描いて、描かれた言葉が指し示す「もの」を探してみてください。「心」「身体」「家族」「会社」「国」などの言葉が指し示す「もの」は、何らかの形で認識することができます。身体は鏡の前に立って映った影像を、家族は父母兄弟姉妹などの影像を、会社はそこで働いているオフイスや同僚の影像を、国は日本の領土の影像を、それぞれ認識できます。
 しかしそれらにかかる所有格の「自分の」という中の「自分」という言葉が指し示すものを静かに追究してみてください。「自分」という言葉そのものが指し示す「もの」を探してみてください。
すると決してそのような「もの」を見つけだすことはできません。
 以下の叙述でそのことをもう一度確認しましょう。

 「自分などは存在しない」と聞いて、すぐに「そうだ」とうなずく人は皆無といっても過言ではあり  ません。それどころか、「そんな馬鹿な」と一蹴してしまう人がほとんどです。しかし、「自分と いうのは言葉の響きがあるだけである」いうのが事実なのです。このことを次のような問答で証明し てみましょう。
   私がある人に「手を見てください。その手はだれの手ですか」と質問すると、その人は「自分の 手です」と即座に答えます。
  ところで、この答えのなかに「自分」と「手」という二つの名詞がありますね。名詞はなんらかの 「もの」を指し示すはたらきがあります(注1)。 
  そこで、私が「手という名詞が指し示すものは眼で確認できますね」といってそのことを確認して もらい、次に「では、自分という名詞が指し示すものを見つけてください」と私はさらに質問しま  す。するとその人は、少し考えますが、はたと困って黙ってしまいます。ある人は「この身体全部」 といいます。しかし、結局は「見つかりません」と答えてきます。
  私は、このような問答を多くの人と行いましたが、だれ一人「自分」を見つけた人はいません。な ぜなら、「自分」とは言葉の響きがあるだけなのですから。
  (注1)
  サンスクリット語とドイツ語と英語とはインド・ヨーロッパ語族に属し、アーリヤ語から変化した  ものです。したがって、「名詞」にあたる単語の「name」(英語でネーム、ドイツ語でナーメ、サ  ンスクリット語でナーマ)は、いずれも同じか、似かよった表現ですが、サンスクリットのナーマ は 「向かう、指す」などを意味する動詞「nam」から派生した語です。すなわち名詞とは「指向す  る、指し示す」というはたらきを持つものです。
  ちなみに「南無阿弥陀仏」の南無はnamの音訳で、帰依と意訳され、阿弥陀仏に帰依する、自らを向 ける、捧げるという意味です。
     (横山紘一著『阿頼耶識の発見』幻冬舎刊、58〜59頁)

  もう一度述べますが、
  「自分というのは言葉の響きがあるだけである」
 のです。静かに心の中を観察することによって、これは事実であるとすべとの方が納得するようにな ります。
  しかし、これは事実であると納得してもそれは頭の中だけの納得で、私たちは、いつもいつも「自 分」「自分」という思いと言葉とが心の中に吹き出してきます。それはなぜか。
 その原因を見事に説明したのが、唯識思想が説く
   「末那識」
 という教理です。
  以下この末那識について考えてみましょう。