執拗な「自分への執着」

 話し手の主の表現は英語はIであり、ドイツ語はIchですが、日本語は数が多い。
たとえば、「わたくし(私)」「わたし(わたくしの省略形)」「おのれ(己)」「おれ(俺)」「じぶん(自分)」などがある。以下、これらの中の「自分」という表現に統一して話をすすめていきます。
 私たちはいかに「自分」というものにこだわっていることか。そのこだわりを二、三の例をあげて考えみましょう。
 たとえば、たとえば他人から「おまえはなんて馬鹿だね」と言われると、「自分はそんなことはない」と思って、むかっという気持ちになります。
 また話し合いの中で「きみの考えは間違っているよ」と言われると、「そんなことはない、自分の主張は正しいのだ」と反論したことがあるでしょう。
 ところでこれらのやりとりは、判断に「事実判断」と「価値判断」と二つある中の「価値判断」でのやりとりです。前者の事実判断は、「これは〜である」という判断であり、後者は「これは」にあたるものの価値についての判断です。前にあげた例でいえば、「おまえ」や「きみの考え」について「馬鹿である」「間違っている」という判断です。
 いまあげたように価値判断の中は「自分」という思いと言葉とが生じてきます。
 ところで「事実判断」においても「自分」が関与しているのです。たとえば、白墨を手にしてある人に「これはなんですか」と聞くと、その人は「それは白墨です」と答ます。でもこの答は不十分なのです。その人は「それは白墨であると自分は思います」と答えると完璧な答となるのです。他の人はその白墨を「それはタバコです」と答える可能性もあるからです。このように事実判断においても「〜であると自分は考える」と、そこに「自分」というものが関与しているのです。
 とにかく、なにごとにおいても「自分は」「自分の」という思いと言葉が心の中に現われてきます。そしてその「自分」にこだわり執着して他人と対立し、また自らのなかで迷い苦しんでいるのが私たちの心のありようです。この
      「自分へ執着」
 に対して、私たちは「この自分への執を払拭しさったら、対立や苦しみや迷いがなくなり、爽やかに生きることができるであろう」と直感(直観)で分かります。
 分かってもそれを実現することは難しい。私たちは、寝ても覚めて、いつもいつも自分、自分と思い考えているからです。
 では、私たちはなぜそのような執拗な、ねばっこい自分への執着を抱きつづけているのか、その原因を次に考えてみましょう。しかしその前に「自分」とは「いったいなにか」を考えてみます。