一人一宇宙のこころの中を観察する

7月5日のブログで、「こころ」とは形式に過ぎないので、「こころ」についての追究は、次に「こころ」の内容の追究に進まなければならない、と述べました。今日はその内容について考察していきましょう。
 いま「考察」と言いました。この考察は、考えて察する、と訓読することができますが、考えるにはどうしても言葉が必要です。そして言葉を用いて考えると、その言葉に影響されて、言葉通りに理解して、それで考えることが終わってしまいます。たとえば、「こころには、感覚というはたらきがあり、それは視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の五感覚である」と聞いて、それでわかった気になってしまいます。しかしそれでは言葉だけで抽象的に分かったにすぎません。
 そこで、ここで、私自身の一人一宇宙のこころの中に住して、こころの中に生じる内容を具体的に観察してみましょう。
 いま梅雨時ですので、私は庭に眼をやると、紫陽花が眼に映ります。そこで、私は私のこころの中に紫陽花を見るという「視覚」が生じたことに気づきます。また鶯の声が聞こえてきますが、「聴覚」が生じたのです。食卓に飾った薔薇の花に顔を近づけると薔薇の香りがただよってきますが、「臭覚」が生じたのです。そして杯を傾けるとビールの味を舌が味わいが、「味覚」が生じてのです。そして杯をテーブルの置くと、コツンとテーブルのかたさが腕に伝わってきますが、そこに「触覚」が生じたのです。
 このようにして私のこころの中の出来事を観察することによって、いわゆる五つの感覚を具体的に知ることになりますが、「具体的に知る」と言う場合の「知る」は「智る」と言い換えることができるでしょう。
 この五感覚を仏教では眼識・耳識・鼻識・舌識・身識と言います。眼ないし身という感覚器官を付けて呼ぶところに特徴があります。(この五つはなぜこのような順序になっているのでしょうか。仏教はこの問いに対しても答を用意していますが、いまは省略します。ブログを読まれた方は考えてみてください。)
 感覚を観察した次に「知覚」と「思考」の観察に移ってみましょう。
 知覚とは、それが何であるかを知るこころのはたらきであると定義されます。たとえばいま食卓の上にある「物」を「これはコップである」と認識するはたらきです。そこにはかならず言葉が関与します。次の思考とは、たとえば私が食卓の上にあるコップに対して「このコップはお茶の飲むためのものであり、陶器である」と考えるはたらきです。
 このように知覚と思考とは「言葉」を用いたこころはたらきです。では言葉を生じるこころとは何か。それが、
        「意識」
です。この意識という語につては少し注釈がいります。現代では意識といえば、こころの経験内容の総体をいう意味しています。たとえばば「意識がある、ない」とか言う日常会話の中で使われたり、またフロイト・ユンクの精神分析学で言われる「無意識」という学術用語もあります。
 しかし仏教、とくに唯識思想でいう「意識」は、眼識などの五識とは別のこころであり、
 とくに「言葉を生じる」はたらきを持つこころです。
この意識については後にまた詳しく論じてみますが、いまはこれくらいにしておきます。
 以上、私は私の一人一宇宙のこころの中の観察を通して、六つのこころ、すなわち六識を具体的に智ることができました。
 この六つがいわゆる表層心といわれるこころです。
次回は深層心について考えてみます。