「一人一宇宙」についてのコメント

 私が主宰している「哲学カフェ」(http://www.kouitsu.org/ 「哲学カフェ」の項参照)で「一人一宇宙」(私の10月9日のブログを参照)ということについて何かコメントしてくださいとお願いしたところ、ぼちぼちと感想が寄せられています。いままで集まったものを以下紹介してみます。

一人一宇宙についてのコメント集

(K氏)
一人一宇宙という言葉を初めて伺った時に、斬新で現代的で、私の社会生活での体験そのものだと思いました。多分、現在諸問題に取り組んでいる人々が、より深く考え、試行錯誤の上、打開策に辿り着く契機になる言葉だと思います。
私は、会社に勤め配属されたのは、某サービス業の某商品別事業部でした。
商品と言いましても、主要商品以外を扱ったり、主要商品を横断的に利用する
商品を担当するという、何でもありの事業でした。
事業部ですから、商品開発、得意先との交渉、契約、サービス提供、トラブル処理、社内関係部の協力を得る、売上・利益責任など入口から出口まで担当していました。
主な仕事は、得意先から様々の依頼・要請(強要も)があり、そのままでは損してしまうので、得意先や関係組織と交渉し、折り合いを付けて商売にするというものでした。
得意先毎に行動の傾向がありますし、同じ得意先の中でも担当者、課長、部長、役員個々に応じて、見方や動機が異なる部分があります。プライドの強い方、実質本位な方、あるいはすぐに儲けて評価されたい方、保身重視の方などいろいろです。関係する組織(得意先、役所、外注先、社内他部門)や関係する個人毎に、共通すること、違うことや事態の推移(経済変動などで強弱や違いが変わる)を読み、どのように折り合うかを模索し続けます。先輩たちに最初に訓練されたのは、相手の組織・人に応じて話しなさい、ただし嘘は絶対に付かないことでした。関係者を読み、折り合えそうな手を打ったり、交渉し、その反応を見て、さらに進めて行くのは、なかなか面白いことでした。人の営み共通のことではと思います。
私の所属している部で評価されていた折り合い策は次のようなものでした。
1.何重底の仕組みにする。
得意先のAさんは○○だと思い、Bさんは△△だと思い、納得する。
2.時間の経過とともに変わって行く仕組みにする。
初めは譲歩しても互いに公平に向かう。
3.私の会社の商売にはならないが、得意先の内部で解決できる仕組みや国内外で同様の機能を探して紹介する。長く付き合える方からはお返しがあります。
先輩の中には傑作とも言える何重底の仕組みを開発し、長期的な煩瑣を除き、ある事がスムースに流れる、人々に役立つ百年以上持つことを定着させた方もいます。
人のこころを読んだり、やわらかく頭を働かせることが私は不得手だったので、傑作に匹敵する仕組みは創れませんでした。
しかし、昔から人々の様々な利害を調整しながら人々がうまく協働する仕組みを創った知恵者がいたはずと思い直し、いろいろな仕組みの登場前後を比較し、本来の機能を新たな技術や現代的な表現を使ってマネすることに取り組んできました。
まだ浅くしか気づきませんが、今でも使える知恵がたくさん眠っているでしょう。

(T氏)
『一人一宇宙について』を読ませていただきました。
唯識にはとても興味があり、特にこの『一人一宇宙」については、実際、本当にそうだなあと思います。
「それぞれの人の持つ宇宙の中身は相違します。爽快な気持ちで生きる人の宇宙は明るい宇宙となり、悩み苦しむ人の宇宙は暗い宇宙となります。」
と文中にありました。
そうであれば、自分の宇宙をなるべく明るく曇りのないものにして、住みやすくて快適な環境を作ろうと思います。
ところで昨日、出席させていただいた哲学カフェの話になりますが、印象に残ったことがふたつありました。
ひとつめは、末期がん患者の話が出たときに、先生は、末期がん患者は皆、元気な人と交わりたくないと思っている。」とおっしゃり、わたしは興奮して「いやそんなことはない。がん患者は100人いれば100通りのリアクションがある。」と言いました。
そうしたら先生が次におっしゃったのはこういうことでした。「これが議論だ!」。
うそを言ってでも相手に自分の言ってほしいことを言わせる、これが議論だと先生がおしゃったのは印象的でした。
す ごい高等テクニックですね!
思ってもいないことを言って相手を挑発し、自分に不利な状況を作りあげるなんて考えてみたこともありませんでした。
でもそれもまた捨て身で何かを作り上げること、であるとしたら我のない世界の成せる業なのでしょうね。
もうひとつは、「親しい人と話しているときは楽しいが、儀礼的な仲の人との場合は楽しくない。」という意見が出たときに、先生は「私は誰にもありがとう、ありがとうという気持ちでいるから、誰と話していても楽しい。」とおっしゃっていました。
これもまた自分の宇宙を快適なものにするコツのように思います。
実際、昨日カフェで、ありがとう、ありがとうと心の中でいい続けていたら、とても楽しい場となりました。
カフェで議論をしていると皆それそれ意見が違うのには毎回驚かされます。「一人一宇宙」であれば当然ではありますが。
それでもこうした場で、意見を述べたり聞いたりするのはとても意味あることと思います。
意見が対立して相手を傷つけたり自分が傷つくのがいや、という理由であまり日本では自由な議論の機会はないですが、傷つく傷つけるなどというのはやはり、我があってのこと。元のところで繋がっていればそうした心配はないのでしょう。
誰に対しても何が起こっても有り難いという気持ちでいれば、皆が一体となれるのだと思います。
また参加させていただきます。ありがとうございました。

(M氏)
折角のチャンスですから、コメントだけで参加させて頂きます。
以下長いコメントですが、私が雑誌「ロボコンマガジン」(No.56)の
「ロボット考学と人間」欄に連載していた頃の原稿の一部です。
(ロボット工学、ではなく、ロボット考学、と「考」の字が大切)
どうぞよろしくお願いいたします。
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『第3の間』
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これまで論じてきたところから、読者は時間や空間というものは絶対的なものではなく、相対的な観念だという気がしてこられたと思います。しかも頭を柔らかくして、時間にしろ空間にしろ、私たち人間の頭脳構造が作り出したもの
(認識論的な基本観念)で、たとえば、複眼と単眼の双方を備えた昆虫が感じている空間は、われわれが感じている空間とはまったく違うのだろうと気付けば、その途端に一挙に世界が広がります。
 宇宙観・世界観の大革新です。昆虫も含めた「一人一宇宙」です。すると、時間・空間は人間特有の基本観念だから、ロボットにはロボットなりの別の基本観念があって然るべきだ、という気がしてきます。
 もちろん、ロボットが観念などというものを持ち備えるには、ロボットに意識(気が付いているということ)があることが前提になります。
 しかし残念ながら、意識とは一体何ものなのかは、ロボットどころか
人間自身についても(存在論的には)良く分かってはいません。
 おそらくこれは永遠に答の出ないテーマでしょう。ましてやロボットに意識を賦与するなど、私には夢物語です。(もっともロボットに心を持たせることができると主張される研究者もおられますが・・・。)しかしここでは、ロボットが意識を持った場合を前提として論じます。
 私たち人間に見えている世界(空間)の様子と、昆虫に見えているそれ
とが違うとすれば、ロボットの頭脳に映じている世界の様子も同様に違う
と考えるのが自然ではないでしょうか。
 つまり、ロボットの頭脳構造、すなわちロボットのためのソフトとか、
あるいはニューロコンピュータを用いた場合はその構造に応じて、ロボットが見る世界は何とでも変えることができるわけです。
 すると、時間・空間は人間特有の基本観念で、ロボットはそれとは違う
基本観念を持つ。つまり、私たち人間は時間・空間の枠内のとりこになって、
それでもって一切を認識したり考えたりしていますが、ロボットはそういう世界とは別世界にいるように作ることができるわけで、その場合の基本観念を、時間・空間とは異なる「第3の間(かん)」あるいは「◯間(かん)」と私は言いたいのです。
 この「第3の間」とは一体どのようなものなのかは、今の段階では私自身も
見当さえ付きません。時間・空間の枠内に閉じ込められているからです。
何とかして早くこの枠から抜け出し、もっと自由な世界の見方をしたいと
切望してはおりますが・・・。どうか皆さん、とくにロボット作りに懸命に
なっておられる方々、ぜひこの「第3の間」なるものを創造的に考察してみて
下さい! きっとこれまで人類の誰もが考えも及ばなかった、面白い世界あるいは宇宙に出くわすと予想しますから。
 筆者はこの「第3の間」という観念をはじめて思い浮かべた時、わくわくして眠れませんでした。人類の誰もが予想もしなかった物の見え方、
世界の有様、宇宙構造などが出現する可能性に興奮したからでした。
(以 上)

(A氏)
何回も読み直して言わんとすることを少しでも理解しようと努めましたが 私には難しい様です。具体例を上げられて標題の真意を分からせようとされて折られますが、私なりに別の思考法で考えてみました。
詰まり映像が描写されるカメラを自分としてレンズから入って来る対象物を被写体として位置づけ画面に映り意識されると考えました。
一方対象となる宇宙・リンゴなどの対象物である被写体は確かに存在していることの事実です。
仮に対象物に全く関心が無い場合はレンズを閉じて遮断できます。自分が感知しないという状況です。カメラに依っては被写体に対して諸々な方向から視界を求め自分達の意識で捉え方が決まって来る客観的な現象として考えてみました。自分の意志で宇宙を捉えたくなければレンズから入って来る光線を遮れば良いし、しかしながら対象物は科学的には確かに存在します。
科学的な手法を借りて自分成りに標題に就いて考えてみました。