非常識に生きよう

四か月前から縁あって「私塾界」(全国私塾情報センター:http://www.shijyukukai.jp/)からの依頼で、月一回、インタービューを受けて、私が語った内容が記事となっています。題して「未之知也(いまだこれ知らざるなり)」。七月号に掲載されたものを以下紹介してみます。


凝り固まった常識を洗い落として非常識に生きよう」


 これまで、自と他、そして感謝について考えてきましたが、今回は「常識」について考えてみましょう。
  社会の中で生きていくうえで、「常識」というのはもちろん必要です。しかし、「常識」にだけ則って生きる人は、自分も苦しめ人をも苦しめる可能性があります。
 たとえば、「自然」について考えてみましょう。
ここに一本の木があるとします。この木を3人が見た時に、3人は、それぞれ心の外側にこの木があると言います。しかし、静かに考えてみましょう。ここにある「木」というのは3人それぞれの心の中にある「木」の映像に過ぎません。人はそれぞれ、一人一宇宙の中に閉じ込められていて、そこから外界に出ることは決してありません。自分の心の向こう側に出ることは決してあり得ないのです。
 だから、ここにある「木」というのは3人の心の中にある「木」の映像に過ぎないのです。それぞれの心の中に投影されたものを言葉によって「あそこに一本の木がある」と言っているだけなのです。
 私たち人間は、この事実に気づかずに、「一本の木は、広くは自然は、各人の心の外に共通にある」という常識にしたがって自然を観察し、そして自然に対処してしまうのです。
 そのような常識的な自然観の結果、たとえば、17世紀の哲学者・フランシス・ベーコンが唱えた「知識は力なり」という主張に基づいて、そして近代以降の自然科学の発達にともなって、人間は自然を開拓し改造し、その結果、現にみる地球環境破壊を引き起こしてしまったのです。これは常識に基づいた人間の愚行であるといっても過言ではありません。
 近年「自然にやさしく生きよう」といった標語がよく使われますが、如何に自然に対処するかということよりも「自然とは一体何か」ということをまず考えることが重要です。「自然は心の中にある」というのは、無反省な人にとっては非常識な考えかもしれません。ですが、それが「事実」なのです。


「事実」は、そのことを言うとみんなが納得する普遍的な判断

 ところで、常識は事実に基づいた知識であるとされますが、常識の根拠は、非事実であることが往々にあると私は強調したい。常識を「情報」と言い換えていいかもしれません。現代人は、外部からの情報にあまりにも毒されているのです。その害毒を払拭するために、常識ではなく「非常識に生きていこう!」と私は訴えたい。
 「自然は各人の心の中にある」と聞いたとき、それを認めない人がいるかもしれません。その人は、その人の常識の中で考え判断しているのです。もちろん自分なりに考え判断してもいい。でも問題は、その考えや判断によって、自分だけではなく他人をも苦しめるということがあるということです。
 ここで「考えるとは何か?」と問いを発してみましょう。普通は、ある事を考えるとは、その事を言葉で考えると思いますが、そうではなくて、考えるとは、まずは言葉を発することなく、「その事そのもの」に成りきり成りきっていくことです。そして成りきり成りきった後に言葉を用いて、その成りきった事を概念的に把握する、すなわち普通にいう考えることを展開するのです。常識や情報に毒されているから、「これは何だ?」といった時に、すぐに言葉で考えてしまう。そこに大きな問題があります。
そうするのではなくて、「これは何だ?」と問われたときに、「これ」に成りきり成りきっていってみましょう。そして「これ」を心の深層に強く刻印し、その後に、言葉で考えていくという思考の習性を続けて行くと、複雑な世の中の絡みが段々とほぐれてきます。
 常識の中で生きていくことで、自分も苦しまない、人も苦しめないのであればそれでいいんですが、現にある社会はどうでしょう? 社会においていろんな事件が起こっていますし、それぞれが対立して、世界的に見ても戦争状態に陥っている例が少なくありません。
 政治についても常識の中で考えようとしているように思います。尖閣問題についても、あの島は自分から離れているというが、事実としてあるのは、全ての人の中にある島の映像なんです。それを自分の物であると主張し合うことで、ついには戦争状態に入るという奈落の底に落ちていってしまう危険性があります。それを徹底的に治していくためには、非常識に生きていかざるを得ないのです。
 人間が犯すの最大の愚行は国同士の戦争です。世界の歴史をみても、戦争のなかった時代はありません。その原因は、いつの時代においても、国民がその国の常識や情報に流されていったからです。その結果、殺し合いという取り返しのつかない惨事が起こってしまったのです。

非常識でも「これでいいんだ」と相手を説得する

 事実の中で生きていると、常識の中で生きている人たちから非常識だといって非難されることもあります。でも「これでいいんだ」と確信を持って相手を説得していく。それでも伝わらなければ、声を大にして怒鳴りつけるんです。心の底から怒鳴りつけることで、相手もハッとして気づきます。これこそが「教える」ということなんですが、それをするために勉強し、経験を積み、己を練磨する必要があります。人から何を言われても平気でいられる強さを身に付けるのです。
 その強さは、坐禅などを通して、「そのもの」「その事」に激しく成りきって成りきって成りきっていく、といった実践を通して身に付けられるものです。
 稲を育てるのは1年、木を育てるのは10年、人を育てるのは100年と言われるように、人を育てるためには多くの時間がかかります。しかし、それをしていかなければ、世の中は改善されていきません。未来を背負うのは若者たちですから、本誌を読まれている学校や学習塾などの私教育をされている先生方の存在も非常に重要だと思います。
 私は大学で十代二十代の若い学生を相手に三十年も教えてきましたが、今は50歳を過ぎた大人を対象に「セカンドステージ大学」で毎週授業とゼミを担当しています。ここに参加する人たちは、初めは常識で凝り固まっていて、なかなか私の話を理解できないんですが、繰り返し聞くことで徐々に深層心が浄化され、ものの考え方も替わってくるんです。先日も、半年間ここで学んだ人から「初めは常識で考えるから頭が真っ白になったけど、先生の話を聞いたらシャワーを浴びみたいにスッキリした」と話してくれました。
 凝り固まった考え方で縛られている人たちに対して、最初から言葉だけで教えていくことは全く意味がないんです。言葉だけで教えていくことは、これも常識の中での教育に過ぎません。そうではなくて、先ほどの「木」の話のように、学ぶ人が一つ一つ「そうだ、そうだ」と頷き確認したところで、次に、「概念」や「言葉」で教え始めるんです。言葉は対象を抽象化する作用があります。ですから、言葉でとらえられた抽象的事実ではなくて、具体的事実を拠り所として人は生きていくべきです。
だから、西田幾多郎先生が『善の研究』の中で、

善の研究 (ワイド版岩波文庫)

善の研究 (ワイド版岩波文庫)

「植物学者が分析する花は花じゃない。そのものに成りきった芸術家の描く花の方が本当の花だ」という意味のことを書いておられましたが、まさにその通りです。花を描くには言葉は介入しないのですね。それが芸術の凄いところです。
 また、ご承知のように、言葉にはいろんな意味があって一義的ではありません。今回のテーマである「常識」についても、一般に言われている意味での常識・非常識もあれば、ニュートンがりんごが木から落ちることで万有引力の法則を発見した時のことを考えてみると、ニュートンがりんごの木の前で、悩んで悩んで頭を抱えていた時に、りんごがポトッと落ちたのを見て「ハッ」と気がついた訳ですね。これだってこの発見の方法は、常識とは程遠いものではありませんか。常識で考えても分からないことが、事実だけを見つめていると突如として閃くということがあるのです。
 次のように考えることもできます。一見、常識から外れたことをしているように見えることも、他の常識の枠で考えると常識の範疇と言えることがあると思います。ある組織の常識は、他の組織では非常識ということもよくありますね。だから、こう考えてみてはいかがでしょうか。「from」と「in」と「to」を用いて、過去と照らして考える時は「過去からの常識」、一般的に今あることの中で考える時は「現在の常識」、未来に向かって考える時は「未来の常識」と置き換えてみると、今まで非常識だと思っていたことが「未来の常識」となる時が来るかもしれません。