お経は耳で唱える

6月9日NPODAIJOBU主催の第1回「こころの旅」として平林寺をお参りしました。その中で、ご住職の寛山老師直々に坐禅を指導していただき、また法話を賜りました。その法話のなかでの「お経は耳で唱えるのだ」というお言葉が私の心に残りました。普通私たちは口で声を出してお経を唱ええると考えていますが、そうではない、耳で唱えのだと。
 これはどういうことかと、その後てみました。たとえば、大勢で般若心経を読誦するときのことを考えてみましょう。できれば全員の声がそろった一つのハーモニーで終始すればいい。でも中には日ごろの自分の調子でお唱えする人が、しかも声の大きな人がいれば、全体で唱えるお経の声が乱れてしまいます。それではいけないのだ。他の人びとの声になりきりなりきっていくように努力すること、否、自分も他者も声も忘れて、とにかくなりきっていく、その時の心境を、「耳でお経を唱える」と表現できるのだ、とこのように私は解釈しました。
 唯識思想のなかに「三輪清浄の無分別智」という考えがあります。それは、自と他とその両者の間に成立する行為との三つを分別することなく、なりきりなりきっていく、そのような心をいうのです。たとえば、物を誰かに施すとき、私たちは普通は私があなたに与えると考えますますが、そのように考えることなく「ハイ」と言って与えること、これが「三輪清浄の無分別智」の働きです。
 とはいえ、成りきることは難しい。なぜなら私は常に「私は」「私の」という思いと言葉が心の中に生じて。他人と自分とを区別して我他彼此と音を出す車のような生活を送っています。それではいけない。とにかく「自分を無くそう」と決心してみましょう。そして相手になりきりなりきってみましょうそう。行為になりきりなりきってみましよう。すると次第々々に心が軽くなっていきます。重い心、それは真ん中に「どしーん」と「自分」が住している心です。それを無くすためには、無分別智で生きていく以外にはなりと唯識思想は強調します。
 いまは私は、10日以後、「耳でお経を唱えよう」と言い聞かせ、近くのお寺での朝課を勤めています。朝、お経を唱えている方は、自分に「耳でお経を唱えよう」と言い聞かせてみてはいかがでしょうか。お経を唱えることがない人は、日常の生活のなかで、たとえば、歩くことになりきってみましょう。掃除をするとき、、洗濯をするとき、仕事をするとき、等々になりきりなりきってみましょう。知らず知らずのうちに心が軽くなっていくことに気づいてきます。
 「三輪清浄の無分別智」−−−唯識思想の重要な教えです。