人間の娑婆世界はなぜ二元なのか

新年初のブログを書きます。
今回は昨日(1月15日)に開催した第93回「哲学カフェ」の話し合い内容の一部を紹介します。
その前に、私が主宰し、司会する「哲学カフェ」について記してみます。詳しくは私のホームページ(http://www.idotservices.info/page.cgi?kouitsu)をご覧ください。
「哲学カフェ」は2005年5月に設立しましたが、そのときの書いた設立趣旨を下記してみます。

 哲学といえば、哲学者や大学教授だけが関わり、私たちの現実生活からかけ離れた難解な学問であると受け取られて います。しかし、哲学とは、もともとは、その原語フィロソフィア(philo-sophiaからして「智を愛する」という人間の営みを意味し、現在、フランスではパリを中心 に市民参加の「哲学カフェ」が流行し、その波は地方に、さらには近隣諸国にまで広がりつつあります。
 ギリシャに起こったフィロソフィア、そして対話によ ってお互いに考えるというソクラテス流の思考の仕方は、確かにこれまで日本人には馴染みが薄いことは事実ですが、しかし、さまざまな問題を抱えた現代の日本におい て、他人と語ることによる相互理解や共通認識を求める声が、各方面で、特に若者たちの間で聞かれるようになりました。
 このような日本の現状を鑑みて、話 したい人、聞きたい人、大人の知恵に学びたい人、若者の情熱に触れてみたい人、人生を考えたい人、本質的な問題を論じてみたい人、など種々の人びとが、心を開き、 自由に語り合い、議論し、情報交換することができる場を作ることを目的として、この度、「哲学カフェ」を設立することにしました。
2005年5月に第1回の「哲学カフェ」を開き、2013年1月で第93回になりました。毎回30名以上の方々が集まってくださり、熱気溢れる話し合 いが展開しています。本当に老若男女の語り合える貴重な場です。人間の輪も広がっていきます。 
ご興味のある方は、ぜひご参加下さい。


「哲学カフェ」の話し合いの進め方は、まずキックオフ・トーカーと称する人が、その日の話し合いテーマを提起して、それについて参加者が自由に語り合う形式をとっています。
 昨日のキックオフ・トーカーは、「人間の娑婆世界はなぜ二元なのか」という問題を提起しました。彼は昨年暮れにユダヤ教イスラム教・キリスト教が聖地とするエルサレムを訪れ、なぜイスラムハマスとの悲惨な対立抗争が続くの、その原因はなにか、その抗争をなくすにはどうすればよいか、という考えたことから、今回の「人間の世界はなぜ二元なのか」とい問題を問い掛けたということでした。
 まず二元として「平和と戦争」「繁栄と貧困」「好と嫌」「楽と苦」「喜と悲」等の相い反する二つの概念があることみんなで確認しました。これら二つの概念のうち前者は肯定的、後者は否定的な概念です。そこでまず次のような意見を述べた人がいました。
 後者があるから前者を望むむようになる。だから後者も必要悪であるにしてもその存在は必要である、と。
 ブログを読まれる方々は、この見解に対してどうお考えでしょうか。最初の「平和と戦争」についていえば、日本は第二次大戦という悲惨な戦争を体験したからこそ平和憲法が作られたのである。だから「戦争も必要だった」というのです。私はこの論理には大きな問題があると思います。確かに歴史という流れの上では「戦争があったからこそ平和を望むようになった」のでから、この「」の中を論理的に文脈だけで言えば、平和は戦争を前提としています。そして現実に戦争があり、その後に平和がもたらされたのです。しかし私は考え、主張しました。「頭の中で考えた論理を止めよう、歴史の事実を視野の外においてみて、現に第二次大戦でどれだけの人が死んだのか、苦しんだのか、その事実を直視しようではないか。また戦争で人が人を殺すという行為を是認することができるのか」と問いかけました。
戦後の生まれた人はその戦争の悲惨さ、愚かさを体験していません。だから「頭の中」で戦争も必要だったと論理的に考える。しかし、私は「それは頭の中だけの戯れに過ぎない」と、また「人が人を殺すという行為が戦争だから許されるのか」という人間の行為の規範をも問題とすべきである、と訴えました。今回の「哲学カフェ」ではこれ以上討論を深めませんでしたが、戦争に関する私の考えを横山紘一・田中治郎著『戦争はいやだー「雨ニモマケズ」の理念に生きる』(佼成出版社刊)を読んでいただきたい。
 次に話題となったのは「楽と苦」でした。これに関しては、
もしも「楽」ばかりの世界であったら、私たちはその世界に満足するであろうか、という問題を論議しました。この問題に関してはほとんどの人が(もちろん、頭の中で想像する世界ですが)、そのような世界はつまらない、という見解でした。なぜでしょうか?それは、私たちは、現に楽と苦が雑居する世界に住んでいて、そのような世界の意義を認めているからでしょうか。また私たちは「平和と戦争」とは違って、「苦を乗り越えたところに楽が生じる」という事実を多く体験しているからでしょうか。ここで、ある人が「自分の中だけの苦楽と人間関係の中での苦楽を分ける必要がないか」と問い掛けてきました。もちろん両者の苦楽は関係しあってはいますが、やはりこの二種は分ける必要があります。たとえば、、同じ環境にいても、それを苦と感じる人もいれば楽を思う人もいます。このように分かれる背景には「好と嫌」という感情があるからでしょう。
 ここでいわゆる四苦八苦の話に移りました。
四苦とは「生・老・病・死」の四つでそれに「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」の四つを加えて八苦といいます。そこで私は前者の四つを実存的苦、後者の四つを世俗的苦と名付けました。実存的苦とは、人間である限り誰しもが逃れない苦しみです。問題は、前に「苦を乗り越えたところに楽が生じる」と言いましたが、実存的苦を乗り越えることが出来るでしょうか。生きている苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ、この四つの苦しみから逃れることはできませんから実存的苦と定義しました。しかし、この苦を滅した人がいます。それが仏教を興した釈尊です。「哲学カフェ」では語りませんでしたが、釈尊菩提樹下で悟りを開かれた釈尊は「不生不老不死の世界に触れた」と語られたのです。私は仏教を学び始めて数年後にこの言葉に接して愕然と驚き、よし、そのような世界を悟ろうと決意して修行に励んだことを懐かしく思い出します。
 ここで「ではどうすれば人間が住む二元の世界を抜け出ることが出来るか」という問題に話し合いが進みました。キックオフ・トーカーは最初に「本来は一なる世界であるのに、なぜ二元に分かれるのか」という問いをも発しました。「一なる世界は体験の中にあるのではないか」という見解がでました。そこで私が「本来は一である」という事実を悟ったのが釈尊ではないかと述べました。そして本来は一なのになぜ二元に分かれるのか、その原因を四苦のうちの「生苦」を考えてみようと提案しました。私は前々から生苦すなわち生きている苦しみとは具体的に何かと考え悩んでいましたが、あの宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の次の文句に触れて、ああそうかと分かりました。
「東ニ病氣ノコドモアレバ
 行ツテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ」
これは病苦・老苦・死苦・生苦を悩む人のために奔走することを願う箇所ですが、最後の「北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ」という一文から、生きている苦しみとは「喧嘩や訴訟をすること」すなわち「自分と他者とが対立紛争する」ことであると覚ったのです。つまり「自」と「他」とを区別し自分に執着する自我執着心を私たちが持っていることが、一が二に分かれる根本原因ではないかという見解を述べました。確かに私たちは「自分、自分は、自分の」という思いと言葉が心の中に起こして、自他対立の世界を現出させています。「地獄とは自他対立の世界であり、極楽とは自他一如の世界である」と以前に読んだことのありますが、本当に私たちは人間界に住みながら自分を他者とを対立させて地獄の世界に住んでいるといっても過言ではありません。「地獄はその人の心の中にある」という事実は「哲学カフェ」参加者全員が納得したようでした。
 だから「どうしたら二元の世界から逃れるうるか」、それは「自我執着心をなくす」ことではないかとお互いに確認し合いました。
でもそれは困難です。そこに実践が必要となります。その実践とは何か。話題はは実践法に移りましたが、これについては後日のブログで書くことにします。